fronteのブログ

リストラ離婚 中高年リーマンの半生

ブログ運営 - 半年経って

本当の素人が、初めてブログを始めて、約半年が経った。ITやプログラムの経験など一切ない中高年サラリーマンです。100記事を書くまでは続けようと思っていたが、すでに130記事を突破しています。

誰も褒めてくれないので、自分で自分を褒めるしかない、ある意味悲しい状況です。

ブログはオワコンか?

Yahoo!ブログ終了が象徴的

ヤフーが「現在の市場環境や技術的な運用課題、今後の事業方針など、様々な要因をふまえて総合的に検討した結果、これ以上の継続が難しいと判断した」とし、Yahoo!ブログを2019年12月15日でサービス終了しています。

有名なブロガーがほぼ例外なく、YouTubeを始めていることから考えても、ブログだけでの情報発信力は弱いと言わざるをえないです。

アフィリエイトのための個人ブログはもうたくさん

ただ、何かを購入したいとか、このサービスはどうなんだろうか?と思った時には、やはり、検索エンジンで調べます。その際は、個人のブログの感想を参考にしたりします。しかし、最近は明らかにアフィリエイトのための個人ブログが幅を利かせているので、あまり参考になりません。

それよりも、販売している企業のサイトや専門家と称される方のサイトに訪問して、情報収集をするようにしています。もう、純粋に個人でブログを書いている人は、私を含めて少なくなっています。ただ、中には、趣味でブログを書いていて、アドセンス広告もアフィリエイトも貼っていないものがあり、そのような個人ブログには、私自身目を通すようにしています。

アドセンス広告やアフィリエイト広告がたくさんあると見るのを、ブログがお勧めしていることの信憑性を疑うようにはなります。少なくとも私は。

 

ブログを始めた経緯

収益化のモチベーション

やはり、「ブログで収益化できます。あなたも月100万円稼げます。」との宣伝に踊らされたのが一番の経緯です。何とか、ブログを始めて100記事書いた時点で、月5万円以上の収益を出したいという思いで頑張ってきました。結果、まったく収益化できず、落ち込んで嫌気がさしてしまいました。

収益化できるとあおっている個人ブログに騙されて、ワードプレスに契約してブロブを始めました。その結果、まったく収益化できず、莫大な時間を費やして、記事を書き、半年以上の歳月と、130記事以上を書いてしまいました。しかも、ほとんど私のブログを訪問する人もいなくて、マジで嫌気がさしております><

コロナ禍で

私は身近なところに出かけたり、外のおいしいお店で食事をしたりすることが好きでした。それが、コロナ禍でできなくなり、暇を持て余していました。そこで、ブログを始めるように、個人のブログで薦めている記事を読んで、まんまとその気になってブログをはじめました。

ワードプレスに契約するのが一番だと書いていたアフィリエイトブログに、まんまと騙されてブログを始めてしまったのが、事の始まりです。アフィリエイトブログに騙されたという悔しい想いは、いまだに忘れていません。

趣味として

私は大した趣味を持っていなかったので、ブログのように莫大な時間がかかるのは、暇をつぶせる趣味としては、悪くないなと思い始めています。しかも、それほどお金はかかりません。自分の想いを吐き出すこともできます。自分の正直な想いを吐き出したいから、身バレしない匿名ブログを運営しているわけであります。

今考えると、収益化に目がくらみ、個人ブログに騙されて始めましたが、私には合っている趣味だと思います。死ぬまでに一度は自分が書いた本を出したいと思っていたので、このブログを、その本の代用として、活用していく所存です。

記録を残したい

私の父は、私が大学3年生の時に亡くなったので、父の今までの人生や、人生訓に関するあまり深い話もできなかったことを後悔しています。そのため、自分の子供たちには、そのような後悔をさせないためにも、父親の今までの半生を赤裸々に描いておきたいとの想いが強いのです。

特に、私は離婚していて前妻との間に2人の子供がいますが、ほとんど交流がなくなっています。そのため、その二人の子供に、実の父親の想いや考え方、父のルーツ、父の半生を共有できたらと思っています。そのため、今は私のルーツや、私の半生を中心に、ブログで書き綴っております。

 

ブログによる収益を求めると不幸になる

収益化を求めてブログを書くと、不幸になります。その理由は、ほとんどの人がブログで収益化できないからです。ブログで収益化できている人のノウハウを、オンラインサロンや、ノート等でお金を出して、購入している初心者がいます。そんなことをしてもほとんどの人が収益化できていないでしょう。そして、時間やお金を無駄にした挙句、絶望してブログをやめてしまいます。

私も130記事書いて、半年以上ブログに精魂込めて取り組んできたので、嫌になってしまっています。幸い、オンラインサロンやノート等でノウハウを得るためのお金を使っていないので、それほど多くの損出は出していません。ただ、時間的な損出は莫大で、ブログを書く代わりに、時給1000円のアルバイトをしていたら、50万円近くは稼げていると思いますので、アホみたいです。

 

もう自分にはブログを収益化させる才能がないので、ブログを辞めてしまおうと思い、更新をしなくなった時期がありました。ただ、発想を変えて、もう収益化を諦めて、趣味ブログとして、自分の好きなことを書こうと方向転換しました。

すると、ブログの更新が苦にならなくなりました。かつ、収益化を目指した記事にしなくていいので、ストレスがかなり減りました。また、誰からも読まれなくても気にしなくなりました。そして、1日3~10人の方が、私のブログに訪問していただいていることに感謝するようになりました。

このようにブログの収益化を諦め、趣味ブログとして、ブログを続けていこうと開き直ると、ブログを書くことが不幸でなくなり、ストレスが非常に減りました。ありがたいことです。

 

これからもブログ続けようと思う

テレビやYouTubeをみて、ダラダラと時間を過ごすのもいいけれども、結局何の生産性もないので、その時間を使って、自分自身のブログを書くことは悪くないと思うようになりました。

Facebookをやってはいますが、実名でかつ友人や会社の方ともつながっているので、もう年々も一切更新していません。当たり障りのないことしか投稿できないし、自分自身の本音を出せる媒体としてはイマイチなので、この匿名ブログのほうが、遥かに優れていることを発見しました。

今後も、匿名で自分の想いや、自分の半生について、赤裸々に語っていきたいと思います。そして、私が死にそうになった時あるいは、前妻との子供たちが家庭と子供を持った時には、前妻との子供たちに、このブログのURLを知らせたいと思っています。

そして、私が死んだら、匿名を実名に変えて、死後5年ぐらいはブログをそのまま公開してもらいたいと考えています。その頃には、私が赤裸々に描いたことに関して、炎上したりすることはないでしょう。炎上しても、私は死んでいるので、全く問題なしです(笑)

 

 

 

リストラ離婚された中高年リーマン - 映画の楽しみ

映画は、自分が一生体験できないことを、実際の体験したかのように身近に感じれる素晴らしい娯楽である。リストラ離婚されて、本当に落ち込んでいた時に、どれほど映画に助けられたかしれない。

映画「小さな命が呼ぶ時」

ポンペ病:糖原病II型。α-グルコシダーゼ (酸性マルターゼ) 欠損症

オレゴン州ポートランド出身のジョン・クラウリーは、エリートビジネスマンで、3人の子供と仲良く暮らしていた。ところが、2人の子供はポンペ病と呼ばれる難病に冒されており、余命9年を宣告されてしまう。メーガンが8歳になった頃、ジョンは、ネブラスカ大学でロバート・ストーンヒル博士と出会う。彼はポンペ病を研究している人物の一人で、ポンペ病治療の薬品開発を研究していた。ジョンは子供達のために全てを捨てて、博士と共に製薬会社を設立して、その治療薬を開発して子供の命を救うという物語で、実話を基に製作されている

 

私はこの映画をみて、どれだけ研究者が病気の治療に貢献しているか、あとビジネスがどれだけ薬を作るのに重要かということを心に深く刻み込んだ。と同時に、薬をつくるために、象牙の塔(アカデミア)を出て製薬会社で働くという選択肢の重要性をヒシヒシと感じた。やはり、薬を作るにはとてつもないお金がかかり、それぞれの分野の専門家の力の結集が必要であることが身にしみた。

もう一つこの映画から感じたことは、ベンチャー企業を立ち上げて薬を作ることの危うさである。確かにこの映画(実話ででも)では成功したが、ほとんどの場合は潰れてしますはずである。そして、ジョンのような後先を考えない無謀な人しかこんなことはできないであろう。ジョンが成功したのは彼の能力以上に、運が左右しているということである。一括千金を夢見て(私は以前夢見ていた)、ベンチャー企業を立ち上げることの無意味さ無謀さである。

命綱(生命線の確保)があるんだったら、攻めていかないととは心から思うが、命綱を捨ててまでやることは無謀である。もしこれがお金を目的としているのなら自殺行為である。高すぎる望みは身を破滅に追いやる。

「お金は非常に便利なものである。しかし、お金では幸せは絶対買えないのである。」

これだけは身にしみて覚えるように自分自身にも言い聞かせている。家族や自分の生活を充実させる余裕があってこその人生である。人生の充実感は、どれだけ自分の力で積み上げれたかである。

親が金持ちで、自分も金持になっても何の達成感もないはずである。自分でどれだけのことができるか?今やっていることを必死に夢中になってすることが、人生の充実、よい人生を送ることに繋がるのである。

 

映画 「南極料理人

非凡な日々の毎日の仕事をやっていくことを、蔑んではいけない。人間は生きることだけを目的としていた時代があった。ともすれば生きがい、仕事の意義がなければ、その仕事の意味がないと思いがちだが、仕事があってお金をもらっている以上、十分素晴らしいことをしているのである。全力で、感謝しながら、やるべきことにまい進していく。

しっかり仕事した後の日の寝る前や、仕事後の団欒は非常に気持ちの良いものになる。⇒それが生きがいになる。

日々の生活を楽しむことが一番の幸せである。幸せは未来や過去にあるのではなく、現在の中にある。

色々とあったし離婚することになったが、それはそれで良かったし、結婚したことを後悔していない。私の人生の中の楽しい一時期を共有できたことは本当に幸いである。

 

映画 「SNS(ソーシャル、ネットワークシステム)

FACE BOOKの創設者マーク ザッカーバーグの冷徹な天才ぶりをみた。自分のようなアマちゃんでは、彼のようになるのはとても無理だとも認識した。

しかし、彼はFACE BOOKを成功させたのち、もっと大きなプレッシャー(CEOとしての重圧、世間からの注目、何件もの訴訟)を受けている。若手で世界一の金持ちとなった彼は、本当に幸せなのだろうか?心休まる日々を送っているのだろうか?成功者は走り続けなければならないことを認識した。

私は、人生をできるだけ楽しんで生きる。自分というものを確立してぶれないで生きていく。そのことを大切にしたい。

 

松島奈々子の「ゴースト」の映画

「ゴースト」はハリウッド映画のリメイクで内容的には全く同じであったが、一番印象的だったのは、松島奈々子の姿であった。一時はドラマや映画で引っ張りだこだった女優であるが、年齢的な衰えにびっくりした。体系も維持して、メイクも決めているのに、若さは保てない。画面からは恋人役では無理があるルックスが出てきていた。人が老いていくことを非常に身近に感じた。

自分自身も確実に老いていく。若さで美しさを売りにする商売は大変だと感じた。私も中高年になって、これから自分の姿を鏡で見ることが嫌になるであろう。何を自分の中心に置くか?過去の栄光の業績?昔は良かった?仕事を定年退職した後の老後のこと。全然違う。

やはり、今を精一杯いきる。今、業績を上げるように精一杯がんばる。これではないだろうか。90歳まで生きたいので、マラソンと同じで、息切れしないように粘り強く頑張りたいと思う。

 

映画「英国王のスピーチ

イギリスの国王リチャード6世の実話。どもり、どもりになったのは、幼い頃に精神的にいじめられたからである。国王の中の国王、英国王ですら、自由がままならず、非常に不自由で堪え忍ばないといけない人生を送っていた。

吃音というコンプレックスを抱えて生きてきたがゆえに人前に出るのを極端に恐がったり、内向的でありながら一方でプライドが高くてひどい癇癪持ちだったり。少年時代に親から受けた厳しい「躾」(≒虐待)や周囲から吃音をからかわれたトラウマを抱えていたり(・・・実はそれが吃音の心的要因なのだ)。

そして、生来の真面目さゆえに最後は自分が望んでもいなかった立場(王位を継承する)に担ぎ出されてしまって、その重圧に耐えかねて思わず弱音を吐いて涙を流してしまったり・・・。

国王だからと言って、幸せでないことを実感できた映画である。

 

人情物語「雷門の食堂」のドキュメンタリー

本当に個人業主は大変である。旅行も行かず、1日も休みをなく、働きづめに働いている姿は印象的であった。結婚も生活のため。初めて出会ってから1ヶ月で結納、婚約。その後、結婚という形。何だかなー。平均年収400万円の時代。

自分は本当に恵まれている。本当に、今の環境は恵まれているなー。人生、夢を描いて思うように精一杯生きて行けば、望むものが得られるなと心から感じた。周りが悪いのでは絶対ない。自分が問題なのだということを肝に命じること。今の自分の環境は本当に本当に恵まれている。ありがたや!ありがたや!

 

映画「婚前特急

他人の人生が素晴らしい訳ではない。自分自身の人生が一番素晴らしいのだ。退屈な毎日は、皆が過ごしている。それを退屈ではなくするのが楽しく生きるコツである。

5人の男性と同時につきあい、それまでも派手な男性関係を持っていたら、羨ましい人生か? → そんなことはない。

堅実に一つの家庭を大切にしているヒトが最終的には幸せなのだ。男性関係が派手だったことが人生の満足感や幸せに直結しないことを、この映画で実感できた。若い頃にもっともっといろいろな女性とつきあっておけば良かったと後悔する必要はないのではないか?何人もの女性と交わるのではなく、一人の女性とじっくりと付き合うことで女性を理解できるようになると思う。

10人いれば10通りの生き方がある。正解はない。私にとっては友人から、

本に書けるような人生を歩んでいる。

と言われたことは最大の賞賛の言葉であろう。感謝。人生に感謝。

 

ビッグダディ、大家族の奮闘記

いや、本当にすごい家庭である。テレビもなく、自分の部屋もなく、本当に狭い、汚い。親や他人に甘えることができずに、自分自身が頼りの子供たち。我慢して生きている。戦時中がこんな感じではなかったのか?将来に希望が持てず、こんな悲惨な暮らしの中にも小さな喜びを見つけて生きて行く。逞しい。人間の生存力の強さを目の当たりにした思いである。

ある意味、日本の底辺層の生活である。40歳を過ぎて無職、ほとんど給料なし。ありは、朝から晩までお総菜を作って、手取り22万円。それでも14人の家族を養っている。私にそれだけの精神的な強さを持てるであろうか?

 

私は自分自身が一回離婚したことや40代で子供が生まれたことは、彼らの生活からしたら全然小さなことである。忙しいことが悩みを打ち破る一番大きな薬であることが実感できる。

人間は何のために生きているか?→生活するためだけに生きている。

を強く感じる。縄文時代か江戸時代に至るまで、庶民のほとんどは、生活のためだけに生きていた。

自分の人生の意義が見いだせないとか、steve jobsのように世界を変えるような商品を出せるようなCEOになるとか、甘えた夢を見ていてはいけない。出世が遅れているとか周りがどうだとかはちっぽけなことである。

 

このドキュメンタリーを見ると、自分は本当に恵まれている。十分な給料と十分な余暇と休み、十分な社会的地位をいただいている。桃源郷である。ありがたい。

ほとんどが失敗するかもしれないが、首を切られることがないのであるから、自分がやりたい仕事を真剣にすべきである。

 

とおくにぼんやり見えることをやるのではなく、手近にはっきりと見えることに、全力を尽くして集中してやる!!!

 

 

夢の中にいた時

夢中という言葉

何かに夢中になって、わき目もふらず取り組むということがある。その時はつらかったり、非常に大きなプレッシャーの中にいていたりする。ので、全然幸せとは思わない。でも、後から振り返ってみると、それは言葉通り「夢の中」にいるのである。

 

それとは反対に、プレッシャーがなくだらだらと過ごして、自分が楽しいと思った遊び場に行っても、振り返れば、「なんであんなに時間を無駄にしていたのであろう」と思う。しかも、楽しいという思い出があまりなり、という印象にないためあまり覚えておらず、後から振り返ることすら難しい。

 

人生の幸せの度合いは、この「夢中」の状態をどれだけ多く作ることができるかできまるのではないだろうか。ではなぜ困難な状態でも「夢中」になれるのであろうか?それはどうしても叶えたい目標があるからでないだろうか?

 

厳しい研究室時代

大学院時代に、私が自分から望んで厳しい研究室にいって、しばかれながら研究したのも、良い研究がしたい、認知度の高い一流雑誌の著者となる目標があったからである。「出ていけ。やめてしまえ」と言われても辞めなかったのも明確な目標があったためである。

 

実験が失敗して、というか望みようなデータが得られなかった時、

「金返せ!泥棒!泥棒!」

と耳元で叫ばれてもがんばったのは、海外留学するという目標があったからである。この目標というのは本当に大事である。なぜなら目標が将来の自分の姿だからである。このときは悲惨な環境であったが、夢中で生きていた。

正直、机が隣だった、今は国立大学教授になった藁くん(仮名)と飲みに行って、研究室を辞めようかとの相談である。その結果、

「研究室をやめることは決定した。問題はいつ辞めるかという議論になったのを覚えている。」

藁くんは、結局その厳しい研究室を辞めずに、助手まで勤め上げ、最後は教授上り詰めた。今振り返ると、あの日は充実していたなーと感じる。良い青春時代を送っていたなーと今振り返ると感じる。やはり、大変でつらい「夢の中」にどれだけいれるかということが、人生の充実感に繋がるのではないだろうか?消化試合のような人生を生きて何が楽しいのであろうか?

 

やっぱり、心がヒリヒリするような素晴らしい体験がしたいではないか?安定も重要だが、命綱(生命線の確保)があるんだったら、攻めていかないと!!

明るい未来を信じれるものだけに、明るい未来がくる

これは断言してもいい。あなたならどんな自分の将来を描くだろうか?

 

自分の能力を鑑みて、その厳しい研究室で研究するのもすごく嫌だった。海外留学するのも、すごく勇気がいった。極めつけはアメリカで研究室を持つためのジョブインタビューもすごく嫌だった。でも、将来に明るい目標(自分のラボを持つという)があった。

目標があれば、たとえその目標に到達できなかったとしても生き生きとして生きることができる。結局、自分の研究室を持つことはできなかったが、それでも、今振り返れば本当にいい思い出である。

 

小さい頃の親の教え

私は、小さい頃は良「い大学へ入りなさい」と言われ続けていた。

理由は、他人より良い暮らしができるから。楽して沢山給料がもらえるようになるから。と母親から特に言われ続けていたような気がする。40歳を過ぎた今、振り返ってみても、全く間違った教えではないと感じる。自分に特別な才能が見出せないならば、可能性を広げるためにも勉強して一流大学に入学することはベストな選択である。

 

ただ、楽してお金を儲けるためではない。自分に与えられた天分を完全に生かしきるためである。(松下幸之助の人生心得帳参照)。私は、

「早く偉くなって、楽してお金を儲けよう。」

と、そればかり追いかけてきた気がする。現在は、誰もが金持ちになって高い地位につきたがっているのかもしれない。そのため、不満が渦巻いている。私もこの負の連鎖の感情に引っ掛かったのだと思う。それに、最近、気がついたのは、離婚をして人生を見つめなおしたことと、本を読んで人生を探求したためである。

社会人になるまでは、本は無駄なものだと思っていた。今でも娯楽書籍や物語などはあまり役立たないとは思っている。しかし、ベストセラーとなっている人生訓などやノンフィクション、歴史書などは、自分自身の人生を考えさすし、非常に良い影響を与えてくれるものが多い。

 

母校の研究室での生活

私が大学4年生になったころ、やっと念願の研究室に配属された。これから研究生活が始まるのだと期待に胸を膨らませていた。今から考えると大学の教養時代に何もせずに、他力本願で、なにか良いことないかな、と本当に時間を無駄にしていた気がする。人生を振り返っても大いに反省している。あのときに、なぜ、少なくとも散策をして、お寺や国宝や重要文化財をすべて見て回らなかったのか?勉強に打ち込まなかったのか?部活動に精を出さなかったのか?悔やまれてならない。

司法試験に通るという大きな目標を立てるのも一つの手だっかも、いや英語を真剣に勉強するのも一つの手だ。とあれやこれやと思い浮かぶのである。が、過去を振り返っても仕方がない。いかにこの反省を今に生かすかである。やはり他力本願ではなく、馬鹿でもいい、ダメでもいいから、自分から率先して動いて色々と計画することである。

 

その研究室の長の教授が、まあ働かない人であった。本当にお気楽な仕事ぶりであった。というか、仕事をほとんどせず、ただ下にわがままを言って、高給を貰っていた。本当に教授になれば天国のようだと当時は感じられた。江戸時代の殿様のようなものである。「気楽で仕事は部下に押し付けたらよくて、社会的に名誉があって、そこそこの高給が貰える教授職。私も当時教授になろうと思ったのである。

実験はおろか、授業まで助手に押し付けていた。助教授1名、助手2名がいたので、今の研究室と違って、教授が働かなくても、何とかなっていた。その代わり助手が本当に下働きをさせられていた。私が見た教授像は、

「名誉があって、時間があって、お金がたくさんもらえて、こんな良い商売はないな。」

ということであった。

おまけに、教室員が博士を取ると税金のかからないお礼の現金が入ってくるのである。一人〇万円、外から論文博士をとる場合だと、〇万円近くになったのではないだろうか?4人に論文博士を授けて、自家用車を新調していたから優雅なものである。研究費でカラオケセットつきのテレビを買うわ、午後3時ごろから大相撲の中継テレビは見ているは、本当にやりたい放題であった。

 

教授を目指す

もちろん、私はこんなおいしい商売があるのなら、教授になろうと決心したことは言うまでもない。そして、どうしたら若くして教授になれるかを考えたところ、早く海外留学をして、良い論文を書いて、実力で教授職を手に入れるのが一番だと考えた。

当時は、博士号をとる前に中退して、助手になって、何年も下働きして、やっと1、-2年の留学が認められたのである。私は、超特急の博士号をとって、すぐに留学して、実績を出して、助教授で戻ってきて、5年以内に教授になるという道筋を描いたのである。

そのために、国内でトップクラスの研究室に、博士課程の最後の2年間お世話になったのである。そして、留学して、留学先で7年かかったけれども良い論文を書くことができた。すると、国内の状況が大きく変わっていたのである。こんなに早く変わるとは正直思っていなかった。母校の昔の教授みたいな気楽な教授の地位がなくなっていたのである。

 

教授もきちんと働かされるようになっており、研究費の不正も非常に厳しくなり、かつ謝礼金のようなものを受け取ることは禁止されていた。正直当たり前のことが行われるようになったのである。

気楽な教授になれるから、今まで頑張ってきたのにという思いであった。正直昔いた母校の教授の何倍もの業績を出していたので、教授になれるだろうと考えていたのだが、、。しかも、日本に帰ってすぐに独立したポジションも得られない。カナダやアメリカでPI(自分のラボを持つ)になることは、とてつもなく大変で現実的なオプションではなかった。

色々と悪戦苦闘した。ちょっとでも、いいポジションに帰りたいとあせっていた。こういうときは、焦らず実績だけを積み重ねるのが一番である。それをしなかったのである。

 

そして挫折

おいしいと思えるポジションに行った。失敗した。少なくとも全く同じ研究分野の教授の所に行っていたら、全く違った展開になっただろう。誘われていたのである。今思うとT先生が助教授を探していたので、それに打診したのが間違えであった。そこで、ある研究室を紹介された。助教授クラスの研究員を探しているということであったが、実はポスドクであった。

 

帰国後、自分自身が評価されていないと考えて、毎日が不満で一杯だったのである。昔の教授の境遇を目指していた自分がどうしてもこんな悲惨なことになったのだろう。学生や30代の時は下積みで、早く教授になって報われないといけないという気持ちでいっぱいであった。

ただ、2006年頃には教授職もそんなにおいしくなくなって、助手も一人ぐらいしかつかず、本当に雑用や研究費の取得等で大変な思いをする職に様変わりしていた。なんて自分は損をしたのだろう。という忸怩たる想いを持っていた。しかも、なかなか教授になれない。嫌気がさしていた。日本に帰ったらそこからリセットされてもう一度頑張れとの風潮があるように思えた。このときのことは今でも嫌な思い出として残っている。

 

そこで、我慢していれば十数年かしたら教授になれたかもしれないが、企業の研究職のほうが断然素晴らしいと感じる。今はこれで良かったと心から思っている。

企業に勤めている今は、大学と企業を自分の体験から比べることができる。私と同じように留学でそれなりの業績を残したけれど、結局日本の大学の研究室のシステムの大きな変化(しかも閉鎖性は継続している)や教授の仕事量の膨大さ等に嫌気がさして、企業に就職した人が何人かいる。

 

自分自身としては、教授になるために夢中で頑張っていた時代があったからこそ、今の満足できる仕事に就くことができているのだと思っている。夢の中の時代が私にもあったことに心から感謝しているのである!

 

 

死の床で後悔することがないように

死ぬ際に後悔すること

自分が死ぬ際に後悔することは、

    • やってみて、失敗したことでなく、
  • どうしてもやりたかったのに、やらなかったことであろう。

日々の生活の中で一番重要なことは、行動である。「偉大な愛で、小さなことをするだけです。」とはマザーテレサの言葉。

消化試合のような人生を生きると絶対に絶望する。突拍子もないことや他人のサルまねをするのではなく、今やっていることに全力を尽くすことである。結局、人生とは今日1日のことである。今日一日を充実させずに、充実した人生はあり得ない。

情熱と感動をもって生きる。

副業が叫ばれているけれども、本業以外のことに手を出して、意味のない努力をいっぱいして、結局は失敗してしまうのは本末転倒。脇道にそれたりしないで、愚直に本業に精を出すこと。これが充実した人生をおくるための一番の方法である。要領よく生きようとしたりせずに、愚直にコツコツと。それが一番簡単で効果的な方法である。

ライフネット生命の前会長も、左遷されたけれども、本業を一番頑張っていた人。司法試験に受からなかったけど。才能ではなく、愚直に本業に全力投球すると、才能のある人と同じ所に行ける。本業に全力投球がキーワード。

自分が死の床で後悔するかどうか!!本業に集中していて食えなくなったとしても、まず後悔することはない!!!

 

小さなことに喜びを感じれることが一番重要なこと

どうしても人は大きなことがしたいとか、一番になりたいとかにこだわってしまう。しかし、一番重要なことは、日々日常の何気ない小さなことに喜びを感じること、できるならその小さなことにできるだけ大きな喜びを感じることである。これが幸せの秘訣である。

一番になったり、トップになったりすると、名誉とお金が手に入るが、その分プレッシャーと凄い忙しさに振り回されることになる。

現状に満足して、今の中で最大限に楽しむことである。エベレストのような頂上は、空気もなく、断崖絶壁で、風が吹き荒れている。とても長く住む所ではない。上に行くためには、本当に危ないこともしなければならない。致命傷にもなりかねない場合がある。下の麓で生きる方が人間らしい生活が営みやすい。

 

非常に恵まれていると感じろ

青春リアルや平均年収で暮らしている人の記事、花火問屋をしている自営業の実態をみて、つくづく自分は恵まれていると感じた。人生を謳歌していると思う。大学生の1年生、2年生、3年生の頃、充実した時間が全く過ごせなくて、時間を浪費していたことがいつも心に引っかかっていた。後悔していた。

離婚して、先妻の子供に会えないこともずっと心残りであった。それらのことが、私の場合今の生活を楽しもうということにつながっている。

自営業の実態は、本当に命を削るほど頑張っているのに、生活がギリギリで、自分はなんて恵まれた豊かな生活をしていると、感じた。いわゆる特権階級に近いものがある。本当に有り難い。大学関連の研究職をしていたころに比べて、プレッシャーも少ない。感謝、感謝である。できるだけ人生を楽しもう。そういう風に考えて今後は生きていきたい!!ありがたい。ラッキーだ!!!

小学生の頃から頑張ってきたことがすべて今につながっている。頑張ってよかった。人生は自分の思う通りになると思えばそうなるのである。

 

いいようのない不安に駆られる時は、デールカネギーの著書にある「1日の枠組みの中だけ」で生きることを精一杯しよう。そのほかのことは、全く考えないようにしよう。人間はいつ死ぬか分からない。今を精一杯悔いのないように生きることが重要である。ビバ、人生!!

 

ゲゲゲの女房」の映画をみて

本当に極貧の中で暮らしている人の逞しさを感じた。欲張りすぎてはいけないが、ある程度のお金は非常に重要である。

それにしても、水木しげるも頭がおかしくなってあきらめかけたことがある。成功は絶望の後からやってくる。運も非常に重要である。平凡な生活の大切さを感じた。「水木しげる」は、普通の生活ができなかっただけである。たまたま成功したが、野たれ死んでいても全くおかしくない状況である。生活保護を受けて生きるほうがまだ人間らしい生活ができる。

普通に生活できることに感謝。仕事は楽しいと思えば楽しいのである。

 

企業での組合活動への姿勢

会社での組合活動を仕事の延長と考える人と、会社への貢献の楽しみと考えるひととに分かれる。一度限りの人生、楽しく生きなきゃ!仕事の出世にとらわれすぎたり、人間関係をうまくしようとしすぎたりしてはいけない。結局、自然体で生きるのが一番である。やはり、色々な立場の人達としゃべったりするのは楽しいし、他部門の人と人間的な付き合いができるは素晴らしいのではないか?今を楽しくいきる。今が一番輝いている。これを胸にいつもおいて生きていくことが一番である。

組合活動をすると、色々な話が聞けるし、非常にためになる。マネージャーとしての経験を学ぶような場所でもある。しかし、自分の本分が仕事であることを忘れてはいけない。人間関係だけで上がって行こうなんて、虫がよすぎる。やはり、汗水たらして働くことが重要である。幹部社員になってもそのことを忘れずに、やって行く。

自分の道をいく。自分を信じていく。会社に入社してから、少し弛んでいるのではないか!就業時間中に全力を出し切っているか!自分は自分なんだと、自分を信じるためには、今日も全力を尽くしたという気持ちがなくてはならない。

 

再婚について

内資系大手企業の社宅の充実のため、ほとんどの人が結婚して、新築で相場の25%程度の家賃でいい物件に住んでいる。それにしてもあの独身主義者の知り合いまで再婚するとは。人間はやはり一人では生きれないのであろうか?

確かに一人で休みを過ごしていると空しくなるかもしれない。40歳ぐらいで結婚経験の有無を問わず、独身で結婚活動している人がたくさんいる。身近にもいる。

私が小学生のころは、40歳だともう老人に近く、人生に迷うことがない人たちのイメージがあった。21世紀の進歩の速さは目を見張るものがある。本当にびっくりである。人間は弱いものである。どうしても一人では生きていけないのであろうか??自分が結婚と離婚と再婚をしているので、いつも考える課題である。

2回目の結婚は、1回目の結婚とは違う。現実を乗り切っていくために、夢より現実を直視して、結婚生活に入って行っている。ある程度の許しあいは容易になっている。期待値が小さいのであろうか?大学に入ってから、追試を受けることが多かった。全く試練のない人生よりも波乱万丈の人生を生きることが私には似合っているのかもしれない。今後は楽しんで生きていくと決めたので、そのように実行していきたい。

 

仕事について

サラリーマンで終身雇用だと、サボって給料だけもらっているのがいいと考えるであろうが、それは自分の人生を捨てることに等しい。

武士の家計簿」の映画を見た。封建制度の中で、生まれながらに職業が決まっており、出世などもほとんど望めない状況の中で、懸命に働く武士の姿があった。本当に、何を楽しみにこの人は人生を過ごしたのだろうか?と疑問に思った。が、つい150年前までは、そのような制度が普通であった。

それに比べ、今の時代はなんと有り難いのであろうか?びっくりするほどの自由がある。職業選択の自由身分制度がないこと。生活水準の高さ。江戸時代からすれば、殿様でも得ることができなかった夢のような生活である。

仕事が面白くないとか、出世しないとか、不平不満に思うのは、精神衛生上本当に良くない。それよりも、江戸時代と比べて、なんて恵まれているのだろうか。なんと素晴らしい職場であろうか。と、日々、感謝しながら生きていくのが絶対楽しい。仕事も、就業時間中は全力を尽くした方が、その後の余暇が楽しくなる。ひいては、人生が楽しくなる。

サラリーマンとして働いて安定した生活が送れるようになった。=人生の勝ち組になった。であろう。

成功の方程式に乗れている自分の幸福さと境遇に感謝しないといけない。

その時は選択に非常に迷ったが、大学関連の職は選ばずに、一般企業を選んだ私は大正解であった。(私は大学関連の職に向いていないと悟ったので。名誉のために無理をしなくて良かった!)

下手をすると大学に残ることを選んで、ラットレースに巻き込まれて失敗していた。人生とは本当に紙一重。不思議なものである。

 

 

管理人 - 母方の親類

母方の祖母

母方の祖父母に関して、私が母から伝え聞いたことだけを記載しておこう。母方の祖母は、母親がその当時会社を辞めて看病したそうである。そして看病の甲斐なく、亡くなったとのことである。母が子供のころは現在の福井県に住んでいたとのことであった。豪雪地帯で、冬になると雪で埋まるので、2階が玄関になって、そこから出入りしていたそうである。 母は、あの当時は子供で女性は私しかいなかったから、私が会社を辞めて看病せざる負えなかった。そのお陰で、年金が本当に減ってしまったと何回も私に言っていた。

祖母の親元も金持だったそうだ。祖母は、女性なのに師範学校を出て、学校の先生をしていたとのことであった。字がきれいで、非常に達筆であったと母親がいつも言っていた。母は、尋常小学校を卒業しただけで、社会に出た。戦争中だったので、尋常小学校でもあまり勉強は習わず、校庭に作物を植える仕事とかをやらされたと言っていた。

「私も学があったら、母親(祖母)ぐらい字がきれいだったら」

といつも言っていた記憶がある。ある意味、ないものねだりの性格である。

「祖母は、美人で才女であって、私には似ても似つかない。」

と母がよく言っていたのを覚えている。この母親のないものねだりの性格が私にも遺伝したのかもしれないが、今はそれを極力抑えて、前向きに積極的に生きるようにしている。

 

母の実兄

母の実兄のヨッシー(子供の頃のあだ名)は、田舎の家に養子に行ったため、姓が変わっている。当時は、戦争で食べることがままならない時代だったので、長男でっあった母の兄のヨッシーが養子に行くことになったのである。

当初は、「養子さん、養子さん」と言われて嫌な思いをしたとのことであった。私が小学校低学年の頃のヨッシーは、お酒が強いし、ガタイがごついし、非常に怖い印象であった。根は優しいと思うが、短気で気難しいところがあった。私もそういう性格を受け継いでいるのではと思うこともある。

ヨッシー奥さんさんは、本当に気のつく、素晴らしい女性である。苦労したのであろう。今の時代なら、ヨッシーは離婚になっていただろうが、ヨッシー奥さんができた人だったので、我慢のひと文字で家庭円満に暮らしていけたのであろう。ヨッシーのように、死ぬまで自分の非あるいは性格を直すことに気づかず、生きていくことは幸せなのであろうか?不幸せなのであろうか?思うに、「離婚」というハンマーで殴られたような経験をすることによって、人間的に一回り大きくなれるとしたら、死ぬ時には、それも一つの生き方として非常に良かったのではないかと思う。

裁判所の書記官

ヨッシーは、裁判所の書記官をしていて、たしか夜間の大学を卒業したように記憶している。書記官をしながら夜に大学に通っていたのである。昇進試験というようなものがあり、夏に合宿して勉強してその試験をパスしていったというようなことを記憶している。同志社大学の夜間を卒業したとのことであった。苦労人である。

夏にヨッシー家を訪問した際に、ヨッシーが、交通事故や殺人(?)の裁判の話をしていたのを覚えている。職場の話を外ですることは法令順守に鑑みて今ならダメなのだが、一時代前だったのでペラペラお酒を飲みながら話していたのを覚えている。

 

ヨッシー家には非常に大きなお仏壇があって、私が小学校低学年の頃、

「そのお仏壇をほめた」(子供なりに気を遣っていた)

のをしっかりした子だと褒めてくれたのを覚えている。ヨッシー奥さんが小学生になったばかりの私や私が小学校低学年の頃は、1年に1回母方の親戚全員で夏に旅行した。

 

実兄の次男 - 地方大学の学部長

ヨッシーの次男さんがいて、大きなラジコンカーを使わしてもらったことを未だに覚えている。ヨッシーの次男さんは聡明な人であった。学者肌なのだろうか?

確か、誠さんが大学院生の時、研究室の中で自分は嫌われているとぼやいていたのが非常に印象に残っている。国立大学大学院工学研究科助手になったあと、所属していた研究室の教授が地方大学の学長になったため、本人もその地方学に助教授(今でいう准教授)として就任した。その後、順調に教授になり、46歳ぐらいなのにその地方大学の工学部の学部長である(2010年4月の時)。さきがけのような大型グラントを2つも持っていてびっくりした。

実力もあり非常にやり手である。出身大学工学部の教授になることも打診されているようである。ただ、学部長でなくなるのと年収が減るそうである。現在(2010年4月)の年収が○○万円だそうで、私の年収と変わらない。やはり、大学の教員の給料は安い。それなりの名誉はあると思うが、激務である。あまり割の良い商売だとは思わない。

実兄の長男 - ボケやん

ボケやん(ヨッシーの長男さん)の結婚式も非常に印象に残っている。私が高校生の時に出席した産まれて初めて行った結婚式である。そのため、非常に印象に残っている。なにしか、バブル期の結婚式なので、非常に派手であった。ゴンドラでスモークがたかれて上から下りてくる。お色直しも、洋風、和風とあるいった具合だった。しかも相合傘で出てきたりした。最後は、私を含めた出席者全員が二人で手をつないでトンネルのようなものをつくって、その中をボケやんと奥さんのキョウコさんが、通っていったのを昨日のことのように覚えている。

キョウコさんは高校時代バレーボールで頑張っていて、そのまま会社に入社してボケやんと出会ったとのことである。アプローチも奥さんからで、旅行のお土産をボケやんに渡したことから始まったそうである。そのあとも、奥さんはずっと仕事を続けて未だに働いている。

ボケやんはどうしたのだろうか?私がボケやんの家に訪問したときは、普段の日なのに家にいて、かつ高校3年生になる娘さんを車で迎えに行っていた。残念ながら仕事にあぶれたのであろうか?長男が家を継いで親の面倒を見るという昔ながらの家督相続が行われている家である。ボケやんが幸せかどうかはわからないが、親と同居して実家にいなければ、おそらく路頭に迷っていたであろう。

ボケやんとキョウコさんの間には、男の子2人、女の子1人の3人の子供がいる。2010年4月現在では、一番下の女の子が、高校3年である。上の男の子は、大学を卒業して働いているということであった。

 

母の実弟

母の実弟のシズオさんとその妻のイッコウさんに関しては、正直私は良い印象は持っていない。母も私と同様かそれ以上に悪い印象を持っていた。

 

母の実家は、一番上の兄のヨッシーが養子に行ったため、シズオさんが継ぐことになった。そのことを非常に自負しているようである。戦争中に父がなくなり、その後母も亡くなったため、ヨッシーが家長として振舞っていたようである。ただ、ヨッシーとシズオさんの仲はそれほど良くなく、イッコウさん曰く、

ヨッシーとの折り合いが悪く、シズオが飛び出したから、シズオは正式には尋常小学校しかでていない。そのため出世できなくて苦労した。」

そうである。確かに、

ヨッシーは短気で気難しい」

と母も、ヨッシー奥さんも言うぐらいであるから、ヨッシーにも問題があることは確かである。

鬼のイッコウ

イッコウさんに関して、私が一番印象に残っているのは、二人息子に対する躾の厳しさである。とにかくイッコウさんの躾は本当に厳しかった。小さいころの私がシズオさん家で食事をしていたら、食事のこぼしたのを片っ端から拾って綺麗にしている思い出がある。もう40年以上も前のことなのに鮮明に覚えている。

私の母が痴呆症になって、一人暮らしがしたいと泣きついた際に、直接シズオさんの家に電話をかけた際も、イッコウさんを通じてけんもほろろに断られたそうである。調子が良い時は、ある程度対応してくれても、助けを求めた際には冷たくあしらうといった感じであろうか?ただ、

一概にイッコウさんだけを責めるわけにはいかない。ボケた母に応対することは非常に大変である。実の息子の私でも嫌になることがある。ヨッシーもボケた母と喧嘩しているのである。ただ、何かにつけてヨッシー家は非常に親切である。シズオさん家はかなり冷たい。そして、どうなったかというと、ヨッシー家は非常に栄えて、シズオさん家は衰退の一途である。

私の家は中間ぐらいであろうか?やはり、他人や親戚には親切にしなければいけないと感じる。ヨッシー家は、男の子二人(ボケやん、教授くん)で、シズオさん家も男の子二人、フロンテ家は、一人っ子で私のみである。ボケやんは私立大学、教授くんは国立大学工学部、シズオさんの二人の男の子も、有名私立大学をを卒業している。

ボケやんは、地元に就職して、就職先がつぶれても、近所の知り合いのコネで何とか職を見つけたようである。まさに地元密着型である。私のような旅行好きには耐えられないが、田舎にいる親がしっかりしている場合の一つの選択肢であろう。

シズオさんの長男と次男

シズオさん家の長男は、大学院(修士課程)に進みたかったのだが、イッコウさんが大反対して進めず、その後芸能関係の仕事に携わったようである。ただ、私の母の話によると、親戚のお葬式の際に見かけたシズオさん家の長男君は、薬物中毒者のような感じでラリッていて、イッコウさんが恥ずかしいと言っていたくらいだそうだ。私の母曰く、一か所にじっとしていれなくて、小刻みに動いていたそうである。その後は、無職になって、引きこもっているという噂を聞いた。

また、シズオさん家の次男はどこかの製薬会社に就職してMRをしているそうである。ただ、20代の時に結婚しようとした際に、これまたイッコウさんからの大反対にあって、断念。現在でも独身だそうである。イッコウさんが亡くなって、50歳を過ぎてから同年齢の女性と結婚したと聞いたが、子供はもちろん作る予定はない。シズオさん家の長男君も引きこもっているぐらいだから独身のままである。このような状況では、もう彼らに直接お会いする機会はないだろう。シズオさん家というか、母親の本家は、これで実質的に継人がいなくなり、途絶えることになる。本家と言っても財産も何もないのだが、、、。

 

親戚といっても、てんでんばらばらで、ある意味他人であるとつくづく感じる。今後、もうお付き合いもすることはないので、寂しい限りではある。

 

 

自殺した祖父

父方の祖父のこと

祖父は、祖母の実家の家業を手伝うという感じで何にもしていなかったのであろう。見栄っぱりだったそうである。金もないのに、男爵とゴルフに行っていたのだから恐れいる。父から聞いた話である。祖母はそれに対して何も言えなかったそうである。結局、倒産してしまったか廃業したかのどちらかだろう。

父は高校を出てすぐ18歳から働き出して若いころから両親に仕送りしていたようである。祖父は、若いころは奉公先のお嬢さんをひっかけて、駆け落ちして結婚して、その親元の財産を食いつぶし、挙句の果てに、年をとったら子供の仕送りで生きていこうとするのだから恐れ入る。私が小学生の高学年の頃、この話を直接聞いて、祖父に大きな嫌悪感を覚えた。それ以来、祖父のことは好きになれない。

自殺

祖父の最後は悲惨であった。結局自殺したのである。一回目は列車(国鉄)に飛び込んで自殺未遂。それで死に切れなかったそうである。何でも国鉄にかなりのお金を父が払ったそうである。1分ごとに料金が加算されて驚いたと話していた。その時、祖父を父が見舞いに行ったが、別人のように大変弱っていて、

「生きていることが可哀そう」

に思えたそうである。父が子供のころは、祖父は偉そうで、よく殴られたとこぼしていた。私は父に殴られた記憶はない。父が働き出してから仕送りしても、祖父は当たり前のように偉そうに受け取っていたそうである。その祖父が自殺未遂の際は

「迷惑をかけてすまん。」

とベッドで弱弱しく父に初めて謝ったそうである。父が祖父のことを

「ぬけがら」

のようだったと言っていたのが印象的であった。結局、その後間もなく山口県の山林の木に紐をぶら下げて首つり自殺してしまったそうである。この際も、木を買い取って、お祓いをしてもらって関係者に謝罪してと、父は祖父のためにかなり大変な想いをしたとのことであった。それでも、父は祖父のことを

「あのまま生きていても可哀そうなだけだったから、これで良かったんじゃないか。」

と祖父を思いやっていた。それを聞いて、好きにはなれなかったが、祖父には祖父なりの苦労もあったのであろうとは感じた。

生きることを楽しむのが人生の極意だが、それができないと祖父のような悲惨な結果になってしまうのだろう。それに関しては、やっと今同情できるようになった。祖父への嫌悪感が今やっと和らいだのを感じた。

このように過去を文章にして整理していくことは、私自身にとっても非常に有意義なことだと感じる。話を元に戻すと、良くこんな祖父で父はヤケにもならず生きてきたなと感心している。しかも、子供の私に対しては、非常に優しかった。祖父を反面教師として、私に接してくれていたのであろう。有難いことである。結局、周りに対して優しくなれない人は、不幸な人生を歩むのではないか。

「情けは人のためならず。」

結局、他人に優しくすることは自分に返ってくるのである。逆もしかり。祖父は、あの時代だったから祖母から離婚されなかったのであろう。しかし、それが良かったかは別問題である。どちらにしても自らの命を絶つことにつながったことは、悲劇であろう。

「No way out」の精神状態は私にも理解できる。実は大学生の頃、私もそのような精神状態になったことがある。

 

父方の祖母のこと

祖母の記憶はほとんどない。私が小さい頃、祖母と両親と私の4人で、一緒の家で暮らしていたことがある。ただ、母親が短気な性分で、かつ私が腕白過ぎたので、上手くいかなかったそうである。そのため、父の妹の家に住むことになったそうである。物心ついてからは、私は祖母に一度も会っていない。遺影の写真でしかみたことがない。

一通の手紙

ただ、小学生のころ、授業で「おじいちゃんかおばあちゃんに近況を伝える手紙を書く」ことになった。私には、父方の祖父しかいなかった。母親の両親はすでに亡くなっていた。そのため、祖母に初めて近況の手紙を書いた。それを、祖母が本当に喜んでくれたそうである。

下関にいる叔母から父に御礼の電話があり、祖母から直接私宛に手紙が届いたのを覚えている。祖母からも直接手紙が私宛に送られてきた。昔の人が書く文字で、読みづらかったのを覚えている。

お葬式

祖母に関しては、お葬式に出席した記憶がある。私が確か中学1年生ぐらいの頃だったと思う。下関の叔母の家まで行った記憶がある。叔母は、祖母に似たのか、背が低く、顔が小さく「グショッ」としていて、とても美人とは言い難い。私の父や叔父は背が高く、すっきりとした男前の顔立ちとは大きく違い、びっくりした印象がある。

え~~~~~フロンテ家の女性はハズレ?と思ったが、もうひとりの叔母(父の妹)は、父親に似ていて、背が高くてスッキリとした顔立ちの美人であった。

祖父に似ているか、祖母に似ているかでこれだけ大きく違うのである。その下関の叔母さんの子供たちも皆背が低く、正直ブ男、ブスの印象が強かった。

美人な姪

しかし、叔父さんの子供は違った。晴子さんとしておこう。実は名前は忘れてしまったのである。晴子さんは、スラッとした美人であった。セーラー服を着ていたのでそれがよく似合った。私は思わず「へー、同じ親戚でもこんなに違うんだ。」と思った。晴子さんも一人娘である。お葬式の食事のあとの食器とかを進んで片付けて、やたら褒められていた。男女の違いがあるので助かったが、それでも私が肩身の狭い思いをした記憶がある。

叔父さんの奥さん(晴子さんの母)は、看護婦婦長でかつ、国立大学で講師までしていたひとである。晴子さんの母は、サッパリとした男性のような気性であった。そのため家事はほとんどせず、叔父さんかA子さんがいつもしていたようである。だから晴子さんは、後片付けはお手のものだったのであろう。

晴子さんは、美人で素敵な人との印象をその当時の私は持っていた。マジで親戚でなければ、お付き合いして結婚したいと思った。

 

結婚した美人な姪

祖母のお葬式の印象は、晴子さんの美しさと性格の良さが主であった。後日談として、晴子さんは内装業をしているツッパリのような男性とできちゃった婚をするのである。なんでも、一人暮らしをしている晴子さんさんのところに、内装の仕事できた彼が一目ぼれをしたそうで、そこから交際に発展しでき婚になったそうである。それだけ彼女は世間一般の目から見ても美人だったのだろう。

母親がその結婚式に出席したので、写真を見せてもらった。祖母のお葬式の印象が強かったので、さぞ綺麗だろうと期待していたら、正直期待は裏切られた。確かに綺麗ではあったが、ヤンキーっぽくなっていた。私の嫌いな感じの女性の雰囲気があった。類は友を呼ぶで、ツッパリのような男性とのでき婚もうなずけた。やはり、美しさには後天的なものも加わるのであろう。

輝きを失った晴子さんさんの写真を複雑な思いでみた。月日の流れは、このように人を変えていく。私もnegativeではなく、positiveに変身していかなければならないと切に思った。

 

 

管理人 - 小学校時代の忘れえぬ思い出―2

タジさんー父親の友人

同じく高槻市の栄町にいた小学校低学年の頃、近くに工務店があった。タジさん(あだ名)がオーナーの小さな工務店である。父は自分自身のことを

「趣味を全く持っていない」

人間と形容していたが、日曜大工には非常に凝っていた。私から言うと日曜大工が父の趣味だったのだと思う。ただ、父は

「おれは平社員で給料が安いから、必要に駆られて日曜大工をしているのであり、これは趣味ではない。金持ちならこんなことやってへんわ。」

と反論していた。しかし、電気のこぎりや電気カンナもあり、玄人なみの道具を揃えていた。カナズチで釘をたたくのもうまかった。実際、引っ越し前の家は父がかなりリノベーションしていた。自分で土壁のようなにもしていたし、到底私には真似できない。洗濯を干す場所や庭の花壇とかも造っていた。そのため、タジさんとは良くやり取りがあり、お客さんの域を越えて友人関係になっていた。

家を増改築する時は必ずタジさんに頼んでいた。料金も割安だったと思う。父が亡くなった時に、父の葬式にわざわざ来てくれたことを今でも覚えている。喪服ではなく、スラックスにセーターで来てくれたのだから印象深かった。おそらく喪服は持っていないし、全く似合わない印象がある。

家庭がバラバラになる

タジさんの家庭は、娘さんが3人いた。奥さんも働き者であった。ただ、お店が軌道に乗っても、田路さんが大工仕事をして疲れて帰ってきているのに、工務店で売っている材木の配達や集金などに行かされたそうである。それに嫌気がさして、田路さんは奥さんを置いて出ていってしまった。水商売の女とどっかにいったと母が噂話をしていたのを覚えている。

その後、お金の切れ目が縁の切れ目で、その水商売の女とも別れて、タクシーの運転手をしていると母から伝えきいた。奥さんとは別れたのだろうか。もうタジさんの工務店は今は店じまいしていると思う。それにしても、最後まで幸せな家庭はなかなか続かないのであろうか?やまちゃんにしても、タジさんにしてもなぜか不幸な結末である。

 

和田さん(仮名)ー父親の友人

父の友人に和田さんがいた。

この和田さんとは、本当に私が小学生の頃から家族ぐるみの付き合いであった。日曜日には、和田さんに家に父親と一緒に行って、趣味である造園(庭づくり)の話をしていた。和田さんの家の庭も立派なものだったという覚えがある。和田さん(男性)は、父と同じ会社に勤めていたが、仕事のできる人では全くなかったようである。

もともと漁師の息子であるが、漁師がいいと未だに言っていたのを覚えている。漁師では生計が立たないからサラリーマンとして今の会社に勤めたことを忘れたかのような言葉である。解釈好き(物事を独断で判断してその説明を私たちにしていた)のセコイ人(お金とかには細かいらしい)という印象がある。

いまだに「フロンテくん」と私のことを呼んでくれるので、ある意味有り難いものである。私は父方及び母方の祖父母からお年玉等をもらったことがない。お金のない父方の祖母を除いて、全員が鬼籍に入っていたためである。父方の祖母とは、物心がついてから一度も会ったことがない。しかも一人っ子だったため、大きな家族に憧れていたところがある。

ただ、夏休みには、母方の親戚とともに、1泊2日で那智の滝とかの観光名所に遊びにいったことを今もよく覚えている。小家族の私にとっては、楽しい思い出である。

和田さんの息子さん

名前は忘れたが、和田さんには二人の男の子供(兄Aと弟B)がいる。弟Bは若年性糖尿病だったため、私や兄Aとは全く違うものを食べていた。根が暗いという印象がある。

兄Aは、あまり勉強ができなかったらしく、といいうか勉強が嫌いで和田家の教育方針としても高校卒業でよいと考えていた。そのため、高校を出るとあのトヨタ自動車に親戚か友人のコネで勤めたと聞いている。入社後数年で、頭の悪い三流大学出の社員が、大卒ということで自分よりも優遇され非常に悔しい思いをしているという愚痴を聞いたことがある。

 

2010年に私の母親ことで和田さんの奥さんから電話があり色々とやり取りしているうちに、兄Aは結婚して子供もいるそうであるが、専業主婦をしていた兄Aの奥さんが家計を助けるために働きに出て、その職場で出会った男性と子供も残して駆け落ちしたという話を母親から聞いた。そのため、和田さんは兄Aとその子供たちの面倒をみるために、トヨタのある名古屋に引っ越したとのことである。だから、和田さんが急に名古屋に引っ越したんだと合点がいった。しかし、こんな身近に奥さんに逃げられた人がいるとは驚きである。

 

弟Bは、高校を卒業して真面目に働いて、結婚もして幸せな家庭を築いているとの噂である。

有料老人ホームの母への気遣い

初めての老人ホーム

2008年ぐらいに、有り難いことに、和田さんの奥さんから母親のことで電話がかかってきた。その頃は、すでに母は老人性痴呆症で少しぼけていた。そのため、実家の近くにある24時間看護の有料老人ホームで暮らしていた。そのころは、

「一人暮らしがしたい。」

が口癖で、こんな酷い所に入れるなんてとんでもない息子であると周りに触れ回っていた。24時間看護の有料老人ホームは、月20万円は支払わなければならない、私にとっては非常に高価な老人ホームであり、母には私なりに精一杯のことをしているとの認識である。ただ、ボケているため、老人ホームでものが取られるとか、苛められているとか、あることないことを訴えていたのは事実である。

そして、母が今までの記憶を頼りに、泣きながら和田さんの家を訪ねたそうである。私は、子供のころ、やんちゃで口が悪い悪童(?)だったので、私が母親不幸をしていると咄嗟に思ったらしい。そして、電話口で

「一人暮らしをしたいと言っているから、それを叶えてあげたらどうか?」

ということを言われた。わざわざ一度、24時間看護の有料老人ホームにも訪問してくれたようである。母親はとにかく

「24時間看護の有料老人ホームで虐められている、物が盗まれる、信孝にひどい所に入れられた。毎日泣いて暮らしている。」

と訴えたそうである。そのため、

「今の有料老人ホームを出るようにして、一人暮らしをさせてあげて!!!」

と和田さんの奥さんから要請された。

ただ、時間がたつと母が言っていることの整合性に矛盾が出てきたりして、事情がわかってくれるようになりそれほど非難もされなくなった。更には、一人暮らしより24時間看護の老人ホームの方が安心であることも理解してくれるにいたった。

親切な人である。何回も母親に電話で連絡をくれたり、私にも色々と連絡をしてくれた。ただ、和田さんは、長男の嫁が駆け落ちしたため、長男の子供の世話をしなければならなくなったので、名古屋に引っ越していったため、その後は疎遠になっていった。

新しく転居した老人ホーム

母親を、私の転勤に伴い、別の24時間看護の老人ホームに移した際に、母親に電話連絡が取れなくなったと、和田さんの奥さんが、私にコンタクトしてくれた。その後すぐに、和田さんの奥さんは、私の母に連絡をして、今の老人ホームの方が幸せそうに暮らしているとの連絡を、私にわざわざしてくれた。有難いことである。

実際、新しい老人ホームでは母には沢山のお茶飲み友達がいて、いつも食堂で楽しそうに喋っているようである。ただ母本人に聞くと

「どんなに親しくしていても私の部屋に入ってきたりするので、物を盗まれる可能性があるので気をゆるしたらあかん。他人には気をつけんといかんよ。ヒトを見たら泥棒と思えだ!よく覚えておきなさい!」

と私に説教する始末である。老人性痴呆症のためか、猜疑心が非常につよくなっている。悲しいことである。もう少し肩の力を抜いて、人生を楽しむように生きたらどれほど素晴らしい事か。

もう80歳なので、残り少ない余生を心静かに楽しみながら生きてほしいものである。これは私自身にも言い聞かせていることである。人はいつかは死んで土に帰るのだから。

母は最近自分の年を88歳と言い張るようになっている。面白いものである。ヒトは成人するまでの若いころは大人になりたがり、年を上にごまかそうとする。やがて大人になると、70までぐらいは、若く年をごまかそうとするが、70歳を超えて老人になると、今度はまた年を上にごまかそうとする。かなり高齢の老人だから大切にしてくれという気持ちが出るのであろうか?

 

感慨深い

タジさんにしても、和田さんにしても、親戚でもなく、全くの他人なのに、まるで家族のように接してくれたことが、本当に有難かった。あの当時は、濃い人間関係が嫌だったけれども、

今はもうそのような人間関係もなくなってきたので、非常に懐かしく感じる。時代は確実に流れている。