fronteのブログ

リストラ離婚 中高年リーマンの半生

管理人 ― 小学校の忘れえぬ思い出1

「ささばら」

小学校の5年生の頃に出会った親友のあだ名である。もう40年近くも前の出来事なのに強烈に覚えている。あれは、小学校の校区が変更になって、私の通っていた小学校に、別の小学校の生徒が転入して来たことに始まる。初め会ったときの印象は、髪の毛が長く、女子か男子か分からなかった。当時、髪を長くしている男子はほとんどいなかったので、非常に強い違和感を覚えた。

青い粋な高価そうなジャケットを着ていた。しかも隣に並んでいたのは、黄色いキャップがボロボロで、旧日本兵を彷彿される大谷くん(仮名)だったので、そのコンストラストは鮮明であった。粋な都会っ子という印象を心の中でもって、私とは違うから距離を置いておこうというスタンスであった。しかも、オカマかもしれない。(今で言うところのゲイ、同一性障害)、ボロボロの日本兵大谷くんとカップルかもしれないとビックリしていた。ところが、ささばらから

「君、名前なんて言うの?」

と急に話しかけられて、面食らってしまった。

「さあね。」

ぶっきらぼうに私は返答した。すると、

「あ、さあね君だ!」

私は、その切り返しに一本取られたなと感心してしまった。それがささばらとの出会いである。その後、勉強ができてスポーツ万能のヒノマサ(あだ名)と、仲良し3人組になったのだから不思議なものである。その当時、ささばらとヒノマサは、ふたりとも11階建の集合住宅のマンションに住んでいた。そこは、私が小学4年生から通っていた進学塾があるところであった。

私とヒノマサは、小学校でも勉強ができて、読書感想文も全校生徒の前で朗読するようにと担任から言われるぐらいであった。ただ、ささばらは、そんなに勉強ができる方ではなく、クラスで中ぐらいだとの印象があった。ただ、高校受験に際して、中学2-3年生の頃から、私と同じ塾に通いだし、2番手の高校に受かったのには驚いた。私とヒノマサが良い影響を及ぼしたのかもしれない。

ヒノマサ、その当時校内暴力で荒れていて、学力も低かった「積木くずし」中学には行かず、引っ越しして、まともな公立中学に通っていた。親の配慮である。そして、難関大学への進学では高い実績を誇るの名門公立高校に入学した。私は、学区の違うその高校には行けなかったので、私の所属する学区の一番の進学校に入学した。文学界では有名人を輩出した高校であった。

中学、高校、大学と、ささばらやヒノマサとは疎遠になってしまったが、小学生時代の大親友であった。あの頃は、まだまだ若くて、友人の大切さなんか、これっぽっちも理解していなかったように思う。

 

やまちゃん(父親の友人)

まだ引っ越し前、小学校低学年の頃は、日曜日になると父親と父親の友達(会社の同僚)のやまちゃん家に遊びに行っていたのを覚えている。日曜日の朝は父が早く起きてくれて、いつも自家製のホットケーキを焼いてくれた。それを食べるのが本当に楽しみであった。母の料理は下手だったので、特においしく感じた。それから自宅でゆっくりしてから、やまちゃんの家に遊びに行くのである。父は無趣味であったから、そのような休日の過ごし方が一般的であった。

その当時の父は、年齢的には50歳ぐらいで、今思うと友達のやまちゃん自宅までよく遊びに行っていたなと感じる。その当時は、まだ人と人の繋がりが濃かったのであろう。父親は「しんちゃん」とあだ名で呼ばれていた。別に何するわけでもなく、やまちゃんの家に雑談しにいって、3-4時間ぐらいいるのである。

私は大人の話を聞いていて結構楽しかったような気がする。内容は全く覚えていない。夏は冷房のきいた部屋に入れてくれて、ジュースとか出してくれるのが有り難かった。

一度、小学校3年生の時に私の友達の同級生と二人で、父には全く言わずに山ちゃんの家に遊びに行ったことがある。冷房とジュースが目的であったが、「お父さんと一緒でないと駄目だよ。」と断られたのを覚えている。今では笑い話であるが、父や母からよくその話をされた。のどかな昭和40年代である。

 

父とやまちゃんは同じ頃に同じ会社に入社して、学歴もお互い高卒だったことから、親友でありライバルであったそうである。父が注文建築の住宅を購入したら、対抗してすぐにやまちゃんが新築を購入したとのこと。それは、裏の家で少し広くなった程度である。どちらの家にも私は行ったのだが、間取りは全く覚えていない。ただ、昔の家族ぐるみの付き合いが残っていた時代である。今は、職場の同僚どころか兄弟夫婦の家に行くことも全くと言ってない。アメリカやカナダではまだホームパーティとかあって家庭を垣間見ることができるのだが、日本ではそのような習慣はもうなくなったような気がする。

 

やまちゃんの奥さんはバツ一で再婚でやまちゃんと結婚したそうである。水商売で今でいうクラブに勤めていたそうである。その当時のやまちゃんの奥さんは、山ちゃん以外にも中小企業(お肉屋?)の社長さんから口説かれており、色々と迷ったそうであるが、大企業のサラリーマンのやまちゃんにしたそうである。社長さんだと金があるから浮気されるとか、中小企業だと安定していない、自分の分相応とか現実的なことを考えたそうである。

 

やまちゃんにも、それ以前に婚約者がいたそうである。その婚約者は不治の病で、結局若くして亡くなったそうである。不治の病で床に伏せている婚約者のいる病院に見舞いに行ったあとは、やりきれない想いで、お酒を飲まずにはいられなかったそうである。ドラマのような話が身近にあるので非常に驚いたのを覚えている。

やまちゃんの奥さんは、水商売にいたから綺麗だろうと想像するだろうが、全くそんなことはなく、よくこんな人が水商売できたなーという感じであった。はっきり言えば不細工である。無理な化粧をしすぎたのか、肌が汚くて化粧くずれしたみたいな顔であった。確かに性格的な明るさはあった。あと、ズケズケと言いたいことをいう性格であった。

赤ん坊の私をみて、

「鼻の高い赤ちゃんで端正な顔立ちやけど、こんな子は病弱で本当に苦労するよ。ざまあみろ!それに比べてわが子のこの可愛いさよ!」

と言ったそうである。母親が何回もこのことを愚痴っていた。結局、やまちゃんには二人の女の子ができた。長女は今でいう引きこもりで、ぬいぐるみ命で、今だに結婚していないと聞いている。次女は、かなり明るく社交的で確か結婚したと風のうわさで聞いた。その後のことはよく知らない。

というのは、やまちゃんが脳溢血になって寝たきりになった。おそらく私の父が亡くなってからであると思う。やまちゃんは短気な性格であるので、結構奥さんに八つ当たりしたのである。元水商売だった奥さんは、本領発揮で飲み屋で年下の男と知り合って、山ちゃんをおいて駆け落ちしたそうである。離婚に至ったと思うがその際購入していた家も売り払われたそうである。

やまちゃんは、奥さんにも逃げられ寝たきりで会話も十分できない状態で、失意のうちに亡くなったとのことである。やまちゃんの死ぬ前の晩年は不幸な生活であったろう。ただ奥さんもその後、金の切れ目が縁の切れ目で、家を売り払ったお金がなくなった時点で、年下の男と奥さんは別れたそうである。

「やっぱり水商売の女は最後まで水商売の女や。」

と私の母が言っていたことが強烈に脳裏に焼きついている。そのせいか、私は今まで女性が接待する飲み屋に行ったことがない。やまちゃんの不幸な最期がトラウマになって、水商売の女性は苦手になってしまった。

 

私が子供のころは、やまちゃんの家は幸せそうな家庭だと全く疑っていなかったのに、このようなドラマのような顛末があったのである。「人生一瞬先は闇」を身に染みて感じた出来事であった。

 

 

管理人 - 小学校の時の遊び

私は、関西のどちらかと言えば田舎の小学校に通っていました。転校はしましたが、隣の市に移っただけで、地元が大きく変わったということはなかったです。幸せな小学校時代だったので、無垢な時代でしたが、すべて輝いていた頃と言っても過言ではありませんでした。

ドッジボール

朝早く学校に行って、授業が始まるまで、1時間弱、ドッジボールで遊ぶのが本当に楽しかったです。バカ話をしながら、必死で真剣にドッジボールで遊んでいたのが、今でも楽しかった思い出として走馬灯のように蘇ってきます。その当時流行っていた「ヤッターマン」のアニメに、なぞらえて、「愛の目覚め~~」と言いながら、相手にあてるように、ボールを必死で投げていました。

[box01 title="ドッジボールの基本ルール (出典:ウイキペディア)"]

  1. 長方形のコートを二分し、それぞれのチームの陣地とする。原則的に自分の陣地から出るのは禁止(後述するスーパードッジの場合はアウトにはならず、ボール支配権がかわる)。
  2. 自分の陣地の中(「内野」とも言う)と、相手のコートの周囲(「場外」「外野」とも言う)に人を配置する(外野を配置せずに開始する場合もある)。
  3. 攻撃(ボールの支配権を持っているチーム)
    • 敵陣の中に向かってボールを投げ、中にいる人に当てる。
  4. 守備(ボールの支配権を持っていないチーム)
    • 陣地内では、相手の投げたボールに当たらないように逃げる。もしくは受け止める。ボールを当てられた人はアウトとなり、場外へ出る。
    • 当たってもバウンドする前に当人が捕球した場合はセーフ。バウンドする前に他人が捕球した場合はセーフ(アシストキャッチ)であったり、受け取れなかった人間のみアウトにするなどさまざまなルールがある。又は、ノーバウンドで2人以上に当たった場合、最初に当たった人のみがアウトになるルールや、当たった人全員がアウトになる(ダブルアウト)ルールがある。ただし、一度地面でバウンドしたボールに当たった場合はアウトにならない。アウトになった状態の人が場外に出る前にボールに触れることは原則禁止であるが、故意に触った場合、「死人ボール」として相手ボールになるルールも存在する。
  5. 攻守の入れ替わり
    • ボールを受け止める、もしくはワン・バウンドボールを拾うと、ボールの支配権が入れ替わるため、攻守が入れ替わる。
  6. 復活
    • 場外の人が、敵にボールを当てた場合は、当てた人自身が自分の陣地内に戻ることができる。また、ゲーム開始から場外にいる人(元外)は、自分のチームにボールを当てられた人が出た時に、1度だけ交代で陣地の中に入れるというルールもある。ただし、このルールが公式戦で用いられる事は稀である。また後述するスーパードッジのように、一度場外に出ると二度と自分の陣地内に戻れないルールも存在する。
  7. 相手の陣地に人間がいなくなったら、パーフェクトゲームとなり、勝ちとなる。

[/box01]

私が小学生時代に本当に楽しんだこのドッジボールが、「非人間的で、人間に害を及ぼす」として教育の場からドッジボールを廃止すべきと言われていることを知ってマジで驚いてしまいました。40年以上経つと正に隔世の感です。

勝部元気がツイッターで「ドッジボールを学校でやらせるのを早く禁止するべき。他人にボールをぶつける野蛮なスポーツであり、イジメにも繋がりやすいことを考えれば、義務教育で全員参加させるべきではない」「暴力性が強く、運動が苦手な人は恐怖心に苛まされるし、イジメに繋がることも多いし、実際に加害精神で相手にボールをぶつける人も多く、子供の心に大きな傷を与えるもの」と投稿し、インターネット上で賛否両論を呼んだ。 実際に、現在の日本では「いじめにつながる」との理由からドッジボールを禁止する小学校が存在し、ボールを転がして当てる「コロコロドッジボール」に切り替えた学校もある。 また同年には、カナダの教授が「非人間的で、人間に害を及ぼす」として教育の場からドッジボールを廃止すべきとする論文を公表した。 なお、ドッジボールを日本に伝えた1人である可児徳が著者に入っている『理論実際 競技と遊戯』では、ボールを強く投げることを禁止し、なるべく軽く投げるよう注意する、と注意点を挙げている (出典:ウイキペディア)

大富豪(トランプゲーム)

トランプのゲームで、兎に角、はまっていたのが、大富豪です。別名、大貧民とも言います。昼ご飯を必死で早く食べて、兎に角、この大富豪に全力投球でした。通常の休み時間も、もちろんこのゲームをしていました。

[box02 title="大富豪の基本ルール(出典:ウイキペディア)"]

  1. 1組全てのカードをプレイヤー全員に均等に配る。通常はジョーカーを1枚含めてプレイする。カードは特に人数が多い場合などは2組(あるいはそれ以上)を同時に使うこともある。
  2. ゲームはダイヤの3から始める。最初の親が手札から最初のカードを出し、以降順番に次のプレイヤーがカードを出し重ねていく。
  3. カードには強さがあり、弱い順に3,4,5,6,7,8,9,10,J,Q,K,A,2とされる。ジョーカーは革命の影響を受けない。
  4. 次のプレイヤーは、場にある現在のカードよりも強いカードしか出すことができない(例:場には9が出ている→10以上の強さのカードしか出せない)。
  5. 出せるカードがない時、もしくは戦略上出したくない時(例:手札にある強いカードはゲーム後半まで温存しておきたい、など)にはパスが許される。また、パスの回数は制限されない。
  6. 他のプレイヤー全員がパスし、再び場にあるカードを出したプレイヤーまで順番が回ってきたらそのプレイヤーは親になる。このとき、場にあるカードは流され(場から退けられ)、親は手札から好きなカードが出せる。
  7. 親は複数枚の同じ数字のカードを合わせて出すことができる(例:4のペア(4♠4♦)や10のスリーカード(10♦ 10♥ 10♣)など)。複数枚カードが出ている場合、プレイヤーはその数字より強いカードを場と同数枚組みにして出さなければならない。例えば5が2枚出ている場合には6以上のカードから同じ数字のペアを出す必要がある。ジョーカーを用いる場合には組み合わせて(例:「7を1枚とジョーカーを1枚」を「7を2枚」の代わりとして)出すこともできる(ただし、その場合ジョーカーは出したもう片方の数字と同じカードとして扱われる為、最強のカードではなくなる)。
  8. 以上を繰り返し、一番早く手札が無くなった(上がった)プレイヤーが大富豪となり、以降上がった順に富豪、平民、貧民、大貧民と階級がつく。参加人数に応じて階級の種類は増減する。
  9. 第2ゲーム以降は、カードが全て配られゲームが開始する前に、大貧民と大富豪、貧民と富豪のプレイヤーがそれぞれ手札の中で最も強いカード(大貧民は2枚、貧民は1枚)と好きな(必要のない)カード(大富豪は2枚、富豪は1枚)を交換する(連盟用語では献上。他に税金、搾取などとも呼ぶ)。また、ジョーカーは交換しなくても良いというルールもある。
  10. 最も低い階級の人を親として次のゲームを始める。[/box02]

単純なゲームなのですが、6人程度で、何回も何回もやっていました。大貧民になっても、同じ数のカードを3枚以上集められた場合は、大逆転で大富豪に勝つ可能性があり、そのスリルが何とも言えませんでした。

小学校時代には、時間を忘れて、それこそ、何百回とやり続けました。今のように、YouTubeとか一人で動画をみたりすることがなかったので、トランプを通じて、同級生との触れ合いができた時代でした。

「だるまさんがころんだ」ゲーム

このゲームは、放課後、木が沢山ある大きな公園でよくやったものです。それでも、ドッジボールや大富豪に比べると、それほど面白くなかったので、すぐに飽きて辞めてしまったものです。

[box03 title="「だるまさんがころんだ」基本ルール(出典:ウイキペディア)"]

  1. 遊びを始める前に鬼の自陣を決める。普通、木やブロック塀など、地面に建つ柱や壁のようなものを使う。鬼以外の参加者は、この自陣からある程度以上離れた場所で遊びを始める。
  2. 鬼は自陣となる柱や壁のほうに向かい「だるまさんがころんだ」という掛け声を唱える。柱や壁に向かっているため、他の参加者の行動は見ることができない。唱え終わるまで、振り返って周囲を見渡してはならない。
  3. 鬼以外の参加者は鬼が掛け声を唱えている間だけ行動できる。触れようとして鬼に向かって近づく。
  4. 掛け声を言い終わった鬼は、周囲を見渡すことができる。この間、他の参加者は、歩くことはもちろん、少し動いてもいけない。
  5. 鬼が動いている者(厳格な基準はなく、グループ内でのコンセンサスによるところが大きい)を見つけると、その者にそれを指摘して、捕虜として自陣に呼び寄せる。捕虜となった段階で、前項の行動禁止の対象から除外される。 捕虜は、他の者が鬼に捕まらずに鬼にタッチする(触れる)まで、逃げることはできない。捕虜は、捕まった順に鬼を先頭として鎖状につながっていく。
  6. 鬼が掛け声を言うことと指摘を繰り返し、他の参加者すべてが捕虜となった段階で鬼の交代となる。その場合、最初に捕虜となったものが次の鬼となり、最初の状態から遊びを再開する。
  7. 参加者のうちの誰かが鬼にタッチするのと同時に、捕虜を含めた鬼以外の参加者は鬼の自陣から逃げる行動をとる。ただし、捕虜がいない状態で鬼がタッチされた場合は即座に鬼の負けとなる。
  1. 鬼は「ストップ」「止まれ」など叫ぶことによって、逃げる者の行動を止められる。
  2. 捕虜などの行動を止めた後、鬼は限られた歩数(「大股5歩」など)や秒数(かくれんぼとは逆に行動時に数え上げる数)、または自分のはいている靴を蹴り飛ばし、その距離を歩くことができる。この鬼の行動の際に触れられた逃亡者は、鬼の捕虜となる。
  3. 前項の行動によって、鬼が全ての参加者に触れることができると、鬼の勝ちとなり鬼役が交代する。この場合、次の鬼は最初に触れられた者となる場合が多い。全ての参加者にタッチすることができなかった場合はすべての参加者が解放され、また初期状態から再開される。鬼が交代できなかった場合、通常は鬼を継続させることとなる。

[/box03]

私が小学生の頃は、まだテレビゲームやYouTubeはなかったので、公園で遊べるゲームやトランプが主流でした。今の小学生からは、考えられないかもしれません。

私も、昭和初期に流行った缶蹴りのようなゲームはしたことがないので、その時代、時代によって、小学生の遊びが非常に様変わりすることがよくわかります。

 

 

管理人の父と母 ― 当時ではありえない晩婚

二人が結婚した馴れ初め

父親と母親の馴れ初めであるが、友人の結婚式で出会ったそうである。というか、結婚した友人に紹介されたというのが妥当かもしれない。父が40歳ぐらいで、母が37歳ぐらいの時であろう。母は滋賀県の実兄のところに同居していたそうである。父のプロポーズの言葉は、

「借金があるけど、一緒になってくれないか?」

というものであった。母の実兄は、借金のことを聞いて大反対だったそうだが、母は、このまま居候して一人でいても仕方がない。借金は二人で返せばよいということで、プロポーズを受けたそうである。

実は、借金というのは嘘で、小さな家を買えるぐらいのお金を父親は持っており、プロポーズを受けてもらった時点で、

「じゃ、二人の新居を買いにいこう。」

となったそうである。母的には感動して

「かっこいい」

と惚れ直したそうだが、私は今の年齢になって冷静に判断するとあまり感動はしない。結婚前に借金があると嘘をついていた、借金があっても結婚してくれるかどうか試した、この2点において、試されたとしか私なら感じない。ちょっとひねくれているかも。ただ、母としては借金を返さないといけないと思っていたのが、小さな家まで購入できたのだから、万々歳で手放しで喜んだのだと思う。

 

母の実母が反対したように、下手をすると結婚が流れてしまう可能性があった点である。私は「一緒になってくれないか?」

だけでいいじゃないか?劇的な(?)演出はリスクが高いと感じた。まあ、

「愛情を試そう」

との意図は全くなかったのかもしれないが、嘘はよくない。父親の美学だったのかもしれない。私は今でもその美学は尊敬しているし、そのお陰で男性は女性にどうふるまうべきかを学んだような気がするが、よほどの理由がない限り、ヒトを試すような嘘は辞めておくつもりだ。

母は父親と結婚するまで付き合ったことがなく、命がけで結婚に突き進んでいったので、父が恐ろしかったと言ったのを覚えている。母は堅物で不器用で、30後半まで独身だったのは理解できる。下手をするとそのまま、実兄の家で「イカズゴケ」でそのまま居候し続けていたかもしれない。

 

年上の女性には気をつけろ

父親は40歳までなぜ独身で、小さな家を買えるほどのお金を貯めていたのか?それは、父親が飲み屋の年上の女性と同棲していたからである。これは、父親が私に「年上の女性には気をつけろ。」と口を酸っぱくなるほど言い、その実例(失敗例)として敢えて自分自身のことを話してくれたものである。母親はそのことを知らなかったようである。

 

父はスリムな体型の2枚目であった。胃下垂でどんなに食べても太らない体質で、死ぬまで髪の毛も黒々としていた。小さな飲み屋の年上の女将さんに惚れられて、術中にはまって長い間同棲していたとのことである。

「年上の女性は、かゆい所に手が届く。本当に気をつけないといけない。年上の女性とだけは付き合うな。」

と何度も言っていたのをはっきりと覚えている。なんでも大変だったそうである。

昼は、勤め先の大手企業で会社員として働いて、夜はその女性が営んでいる小さな「飲み屋」を手伝っていたそうである。

「会社員をやめて、飲み屋だけにしようか」

と思ったこともあったそうだ。

 

しかし、真面目に会社員をし続けたお陰で、母親と結婚して、私ができて今に至るのである。人生とは、ちょっとしたことが非常に重要になったりする。

兎に角、これぞと思ったことを、嫌でも惰性でも何でもいいから続けることである。これが人生で失敗しないための最低限の方法であろう。その女将には、大きな子供がいたみたいである。詳しくは聞いていないが、その女将が病気(?)でなくなった時に、父は葬式にも出席したそうである。その際に、

「最後までよく面倒をみてくれた。」

と、女将の子供に感謝されたそうである。女将の子供は、父と女将の関係を、最初はお金目当てと断定していたが、父が最後まで女将から金をもらうこともなく、むしろ持ち出しだったことをみて、そう判断してくれたのだろう。

それにしても、父は損な性格である。言葉を悪く言えば、こんな年上女にいいようにされたのである。

「この女将はうまいこと生きたなー」と私は純粋に思ったりもした。

詳しいことは父は語らなかったが、人目を忍んだ同棲生活だったようである。そんな生活はあまり良くなかったとは本人の弁である。たぶん、生涯独身で暮すと父親は覚悟してそうである。

今とは違い、女性は21-22歳でほとんどが結婚していた。40歳で結婚しようにもそんな相手はほとんど存在しなかった。今とは全く違うのである。

 

そのため、年を取ってから一人で老人ホームで暮らすための資金を貯めていたとのことである。非常に堅実なところは堅実なのである。そして、母親と出会い第二の人生が始まったのである。このように人生はいつからでもstart overできるのである。

それにしても、父もこの女将に対しては色々と思いがあったのであろう。「年上の女性には気をつけろ。」と私に刷り込みのように言っていたのだから、やられたとの後悔も多々あったと思う。

しかし、恋は盲目で、その当時は同棲までしてしまうのだから、相当なものである。当時の会社は、個人生活まで厳しく管理しており、同棲は反社会的な行為と思われていたので、父は会社には全く報告していなかったし、ひた隠しにしていたそうである。それでも同僚は会社の人間に知られていたとのことである。

 

私は、この父の刷り込みのお陰で、年上女性に魅力をあまり感じなく、むしろ敵愾心のようなものをいだくような感じであった。そのため、年上女性と付き合ったことは全くなく付き合いたいとも思わなかった。

「フロンテ君はお父さんに似ているから、本当に気をつけないといけないよ。」

と何度も言われていた。

「年上女性=男をたぶらかす酷い奴」

「父親が犠牲者だ」

との意識が常に頭の中にあったのかもしれない。

 

新築の家

小学校4年生の時に転校した。父が新しい家を購入したのに伴っての引っ越しである。もちろん、私の教育のことを考えてら教育レベルの高い場所に移ってくれた。今はもう倒産した注文建築を主体とした住宅会社で、土地60坪、建坪30坪の新築を建てた。これは私の誇りでもあった。

注文建築だったので、自分で大体の設計図を描いていた。父が本当にうれしそうに設計図を描いていたのを覚えている。私もワクワクしていた。

今思うと、昔の小さな家から茨60坪の注文建築住宅に移ってくれたことは本当に良かったと感謝している。

昔の小さな家はベニヤ板でできた安もんの家という感じであったが、注文住宅は高級感が溢れていた。自分が金持ちになったんだと感じて単純に喜んだ。

父親が、昔の家の客間で注文住宅の営業の人に手付金を支払う時に、本当にソワソワしていたのを今だに覚えている。父本人も言っていたが、「肝っ玉の小さい」ところがあると強く感じた。

注文住宅の営業の人が、そのとき家のことを「安造りな家」とつい言ってしまったのを、父が憤慨していたのも覚えている。確かにそうであった。昔の家は、昔の家で本当に色々な思い出がある。

この文書を書いていると走馬灯のように思い出してくる。今私が住んでいる家よりかなり住みにくいが、その当時はそれがスタンダードであった。時代の流れを本当に感じる。あのときは、自分は中流家庭でどちらかと言えばお金のある方ではないかと思っていたが、全くの庶民でどちらかといえば、少し貧しかったことが今になるとよくわかる。

でも、本当に幸せな家庭であった。あんまりお金がありすぎると、幸せになれないのかもしれない。マザーテレサが言っていたように、「家庭があり子供がいれば、何も持っていなくとも幸せになれる。」のかもしれない。

注文建築のいえは、棟上げをしたりしてイベントに参加できて本当に楽しかった。こんなに小さな土地に家が建つのかと子供心にびっくりしたのを覚えている。あと、担当の大工さんがいて、彼がコツコツと我が家を作ってくれていた。担当の大工さんのいるときにいくと、ちょっとした差し入れ(飲み物や食べ物)を持って行かないといけない。いけないわけではないが、そういう慣習であった。

車を持っていなかったので、よく自転車で建築中の我が家を眺めに行っていた。一度、日曜日で担当の大工さんがいないと思って行ったのに、仕事をしていたので、

「差し入れするのがもったいないから、いない時にまた来よう。」

と父が言っていたのを覚えている。この家を買うことでお金を使い果たしていたので、本当に余裕がなかったのだと今ならそう思う。が、その時は、

「珍しくせこいことを言うな。」

と、未だに印象に残っている。折角、建築中の家を見に来たのに、見れずに帰って何しに行ったのだろうと感じた。小学校低学年の記憶なので、記憶は断片的であるが、印象深いものは鮮明に覚えているのである。

古き良き昭和の光景であった。

 

 

管理人の中学校時代 - 後編

私が所属していた「積木くずし」中学は、典型的な不良の巣窟の中学で、今では絶対にありえないとんでもない中学でした。今は、その「積木くずし」中学は、まともな普通の中学になって、私がここで記載しているようなとんでもない問題は起こっていないことを申し添えておきます。

 

体育中お金が取られる

中学生になると、中学校に購買があって、昼ご飯を現金で購入することができたので、中学校に必要最低限のお金を持ち込むことはOKでした。当時なので、今のようにキャッシュレスの概念自体浸透していなかったので、現金を持っていくしかなかったです。体育の時間になると、男子と女子が別れて、別々の教室で着替えて、その教室に脱いだ衣服や貴重品を置いておくことになります。体育が終わると着替えて、また元の教室に戻ります。

その体育の時間に教室に忍び込んで、片っ端から貴重品や現金を盗んでいく不良たちが、「積木くずし」中学には、当然いました。私も何回か被害に遭ったので、体育の授業の時には、お金は一切持っていかなくなりました。当然ですよね。盗まれるのがわかっていて、お金なんか持っていけないですから。アメリカのように鍵のかかるロッカーがあれば別ですが、「積木くずし」中学にはそんなしゃれたものはなかったです。

証拠がないのに、なぜ不良たちがお金を盗んだと私が言い切っているかと言えば、盗んだ本人が私に言ってきたからです。

[chat face="ツッパリ.jpg" name="不良" align="left" border="gray" bg="none" style=""]フロンテ、お前はお金持ってこない奴やな?[/chat]

[chat face="フロンテ.png" name="フロンテ" align="right" border="gray" bg="none" style=""]はぁ、何のこと?[/chat]

[chat face="ツッパリ.jpg" name="不良" align="left" border="gray" bg="none" style=""]体育の時、お前の財布を貰ったけど、たった55円しか入っていなかったぞ![/chat]

[chat face="フロンテ.png" name="フロンテ" align="right" border="gray" bg="none" style=""]購買で菓子パン1個買う分だけのお金しか持ってきてないからな。[/chat]

[chat face="ツッパリ.jpg" name="不良" align="left" border="gray" bg="none" style=""]せこい奴や!お前のイマイチな安物の財布返したろうか?[/chat]

[chat face="フロンテ.png" name="フロンテ" align="right" border="gray" bg="none" style=""]いや、もうええわ。[/chat]

どうせ、教師に言っても何もしてくれへんし、チクったと言われて不良たちからひどい目に遭うのもいややから、そのままの泣き寝入りです。まあ、55円とオマケで貰った安物の財布なので、大したことないので、そんな悔しくもなかったです。ただ、ろくでもない中学に来てしまったという想いは、募るばかりでした。

 

注意すると転校せざる負えない

東奥(あちおく:仮名)という結構体格の良い正義に溢れる男子生徒がいました。何を思ったか、不良の船越(仮名)が机に落書きしているのを注意して、その不良とつかみ合いの喧嘩になりました。1対1だと、東奥は船越の攻撃を避けて、受け身で交わしていました。東奥が学級員長だったこともあって、注意したのだと思いますが、辞めとけばいいのに、結構大ごととなりました。船越を含む不良たちは、10人近くで徒党を組んで東奥に仕返しの機会を伺うことになります。仕返しと言っても、正論を言った東奥が狙われるのは、絶対おかしいですが、それがこの腐った「積木くずし」中学の所以です。

その時の担任の女性の先生が何を考えているのか、火に油を注ぐような発言を、船越を含むクラス全員の前でしていました。

[chat face="女教師.png" name="女教師" align="right" border="gray" bg="none" style=""]東奥くんは、空手を習っていて、本気を出せば、船越くんを倒すことができたのだけれども、武士道で、相手に怪我をさせないために、じっと受け身で耐えたんです。

本当に、素晴らしい態度だったと思います。[/chat]

これに、船越や他の不良たちが反発しないわけがありません。

[chat face="ツッパリ.jpg" name="不良" align="left" border="gray" bg="none" style=""]上等じゃん、ならタイマン(1対1)で、手加減なしで思いっきり、やったるわ![/chat]

で大変ことになります。東奥くんは、「積木くずし」中学に来れば、不良に狙われることになりました。また、その対策が、お粗末でした。

クラスで、体格の良い3人の男子生徒に、その女教師は、

[chat face="女教師.png" name="女教師" align="right" border="gray" bg="none" style=""]東奥くんがトイレに行くときや、校内を歩く時は、護衛するように!

東奥くんも、この中学校内を一人でうろうろしたりしないようい!

[/chat]

と言い放ったのでした。私は、

[chat face="フロンテ.png" name="フロンテ" align="left" border="gray" bg="none" style=""]頭が悪いにも程があるな!

こんなんがうまくいくわけないやん。[/chat]

と、信じられない気持ちでした。

結局どうなったか?東奥は、船越の不良たちにスキを突かれて喧嘩を売られ、非常に居心地の悪い中学校生活となります。東奥がおおきな負傷することはなかったのですが、陰で結構やられていたんではないかと思います。そして、この注意事件があった4カ月後に、東奥は転校していったのでした。

結局、教師は真面目な生徒を守れず、今回も不良が幅を利かせたことになったのです。こんな中学校だと、正論を言う気にもなれないですし、先生は全く信用できず、自分の身は自分で守るしかないことが、身に染みた事件でした。

東奥が、新しい中学で幸せな学校生活を送ってくれていることを願ってやまなかったです。それでないと、あまりにもかわいそう過ぎます。

ろくでもない不良と、それに適切な対応ができないろくでもない先生のせいで、正しいことを行った学級委員長が、中学でひどい目に遭い、不本意な転校をせざる負えなかったのですから。今から考えれば、東奥の両親は、東奥のために転校するという勇断をしたのですから、東奥は、中学校には恵まれなかったけれども、ご両親には恵まれたんだな~と少しホッとした当時のことが蘇りました。

 

 

シンナーで二人の不良生徒が死ぬ

私が中学1年生の時は、中学3年生のいるトイレには、シンナー臭くて近寄れなかったです。それは、不良たちが学校のトイレでシンナーを吸っていたからです。不良がいるとシンナーの匂いでわかるので、シンナーの匂いのないトイレに行くことで危険回避をしていました。たまに、シンナーの匂いの残っているトイレで、小便をするときは、鼻をつまんで口で息をしていました。

そんな無茶苦茶な中学だったので、3年生の不良男子生徒二人が、中学校の美術室の大きな棚の中で、シンナー中毒で死亡していました。もちろん警察沙汰になり、新聞にも掲載されました。

この事実からもわかるように、冗談でなく本当に怖い中学で、不良たちも命を懸けて(?)、ツッパリしていました。なので、私もマジで怖かったです。不良たちを怒らせると、良くて転校、悪い場合は負傷して、命に関わるような怪我をすることも有り得ると、その当時は肌身で感じていました。なので、私はできるだけ、関わらないように、目立たないようにして、中学時代を過ごしていました。

シンナー吸っている不良は、タバコも吸っていましたが、やはりシンナーのほうが強烈なんでしょうか?薬物中毒のように、シンナーにのめりこんでいって、最終的には身を滅ぼしてしまったのでしょう。

 

 

先生が角材で殴られて重体

美術の我聞(がもん:仮名)先生という堅物で偉そうな50代ぐらいの先生がいました。戦前にいた鉄拳制裁も辞さない、生徒の言うことは全く聞かない、先生の言うことは神様のいうことだと言った先生がいました。我聞先生の凄いところは、不良たちに対しても同じ態度を取っていたことでした。何度も言いますが、不良たちも命を懸けてツッパリしているんです。お笑い番組のような軽いノリが許されるような状況ではありません。我聞先生の態度に、我慢の限界を超えたツッパリ達は、我聞先生と直接対決します。

[chat face="ツッパリ.jpg" name="不良" align="left" border="gray" bg="none" style=""]うるせいんじゃ!くそ我聞![/chat]

[chat face="怒った部長.jpg" name="我聞先生" align="right" border="gray" bg="none" style=""]こら何言っとるんや!謝らんかい![/chat]とツッパリの一人が我聞先生に殴られます。

[chat face="ツッパリ.jpg" name="不良" align="left" border="gray" bg="none" style=""]調子乗んな!ぶっ殺すぞ![/chat]

」と背後にいたもう一人のツッパリが、木の角材で我聞先生の後頭部を思いっきり、殴りました!我聞先生は、そのまま倒れて意識不明の状態でした。ふたりのツッパリから、

[chat face="ツッパリ.jpg" name="不良" align="left" border="gray" bg="none" style=""]寝てる場合ちゃうぞ!俺たちに謝らなあかんのちゃんか?

先公が、生徒に手を出すとは何事や!

そこで反省しとれ![/chat]

その後足蹴りされて、唾を吐きかけられたとのことです。その状況に気が付いたほかの先生たちが、異様な状況に、救急車を呼び、何とか一命はとりとめました。しかし、半年の入院と、後遺症で視野が非常に狭くなったとのことです。

ここまで来ると、警察介入を良しとしなかった「積木くずし」中学校でも、警察を呼び対処しました。我聞先生が殺されるところだったので、もちろん、当然の措置です。木の角材で我聞先生を殴ったツッパリは少年鑑別所に送致され、積木くずし」中学校には復学することはありませんでした。

このように、ツッパリは、手加減を知らないという意味で、ヤクザよりも怖い存在なのです。我聞先生が悪いわけではないかもしれませんが、いくらツッパリと言っても、先生が暴力を振るうのは、慎むべきです。

ツッパリは、ヤクザと同じでメンツを大切にします。先生に殴られて、ノコノコ引っ込んで反省することはあり得ません。必ず反撃されます。

我聞先生を個人的には、高圧的で生徒を下僕と思っている嫌な先生と感じていたので、私は好きではなかったです。しかし、意識不明の重体になられたことに関しては、本当に同情します。

その後、職場復帰されて、美術の先生を続けられたのは、凄いと尊敬します。そして、この件があってから、生徒に鉄拳制裁を振るうこともなくなり、我聞先生本人もいろいろと考えられたのだと感じました。

 

のこぎりを振りかざし、乱入してきたオッサン

積木くずし」中学の校舎は、比較的大きな道路に面していました。なので、不良たちが面白がって、校舎の窓から、通行人にめがけて、水の入った小さな風船を投げつけていました。

非常に危険な行為ですが、一般人は、不良中学の生徒の悪ふざけだと泣き寝入りしていたんだと思います。

基本、不良か、不良がかった生徒が水入り風船を通行人に投げて遊んでいました。ただ、通行人の中に、チンピラのようなオッサンがいたから事態は思わに方向に行きます。

チンピラオッサンは、

[chat face="チンピラ.png" name="チンピラオッサン" align="right" border="gray" bg="none" style=""]何するんじゃ!ボケ[/chat]と怒鳴りましたが、中学校の校舎の3、4階にいる不良たちは、

[chat face="ツッパリ.jpg" name="不良" align="left" border="gray" bg="none" style=""]ボケ!あほ![/chat]

[chat face="ツッパリ.jpg" name="不良" align="left" border="gray" bg="none" style=""]聞こえへんぞ![/chat]

[chat face="ツッパリ.jpg" name="不良" align="left" border="gray" bg="none" style=""]なんか馬鹿がおるぞ~![/chat]

とはやし立てるだけでした。それにブチギレたチンピラオッサンは、退散したのかと思いきや、なんとノコギリを持って、中学校校舎内に乱入してきました。

本当にノコギリを振り回して、怒り狂っていました。しかし、不良たちは、逃げてしまった後で、私を含む一般の生徒にまで見境なく怒り続けていました。興奮しすぎたのか、ノコギリを投げつけていました。たまたま運動神経の良い生徒だったので、事なきを得ましたが、運が悪ければ、殺傷事件に発展していました。

まあ、その時の先生の来るのが遅いこと、遅いこと。チンピラオッサンがノコギリを投げつけて、少し気分が落ち着いたとき、タイミングを見計らっていたかのように、先生たちの登場でした。その登場の仕方を見ても、この先生たちはとても信じられないと、私の第六感が働いていました。

 

警察介入を許して非常に良くなった

積木くずし」中学がここまで悪くなったのは、不良達だけではなく、先生たちの「警察不介入」という軟弱な態度によるものです。

不良達は先生が何もできないことを見透かしていて、馬鹿にしていたのだと思います。こんな状況では、「積木くずし」中学は悪くなるばかりです。荒れた中学がその当時は大問題で、これを解決するには、結局、警察の力を借りるしかなかったのです。

そして、私が卒業して、新しい校長が就任すると、徹底的に警察と連携して、不良達を取り締まりました。未成年だからと、教育機関だからと、温情は与えなかったのです。バイクを乗ってきた不良は、バイクの窃盗か無免許運転で警察に連行されました。シンナーを吸っていた不良も、薬物乱用の罪で、警察に連行されました。彫刻刀で落書きした生徒は、器物破損罪、プールで遊び回っていた不良たちは、不法侵入罪等の罪状をつけて、とにかく容赦なく、警察に連行させて、ひどい場合は、少年鑑別所に送致していました。

すると、あっという間に、荒れた中学が、真面な中学に変貌していきました。

 

不良達を退治するのは、愛のある教育とかの綺麗ごとではなく、警察権力による生の力で抑え込むことが一番なんだなと、つくづく感じました。私が通った「積木くずし」中学は、今振り返っても、とんでもない中学で、もう二度とこのような荒れた中学が日本に出現しないことを祈らざるをえません。

マジで、ひどい中学でした><

 

 

管理人の中学校時代 - 前編

本当に荒れ大阪の公立中学校に通うことになりました。1982年に社会現象となった「積木くずし」の実写版のような中学校生活を送っていました。と言っても、私が不良だったわけではありません。そんな不良のいる学校で、嫌な想いをする真面目な生徒が私でした。

正直、こんな公立中学校に入学させた両親を恨んだぐらいです。実際、親友で勉強の出来るヒノマサは、この「積木くずし」中学には行かずに、転校していきました。また、小学校6年生の頃同じクラスにいた優勝な女生徒は、私立中学を受験して、「積木くずし」中学から逃げて行きました。

何も知らない私は、正に想像を絶する「積木くずし」中学で、生存競争をせざる負えなくなります。本当にとんでもない中学校でしたが、実社会で生きていく心構えはついたような気がします。そういう意味では、良かったと前向きに捉えるようにしています。

[box01 title="『積木くずし』(つみきくずし)"]

1982年桐原書店から出版された、実話を基にした穂積隆信による体験記である。副題は「親と子の二百日戦争」。映画化、テレビドラマ化されている。ある日、突然不良少女となった実娘・穂積由香里との200日間の葛藤を描いた作品

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』[/box01]

 

自殺した女生徒

私より1学年上の本当に綺麗な女生徒でした。亡くなられたと聞いた時は、全く信じられませんでした。「美人薄命」とはこのことかと、驚いたのを昨日のことのように覚えています。

同じ塾に通っていたので本当によく覚えています。涼しい目元の色白の典型的な美人がルイさん(仮名)でした。中学校2年生になって、クラスが変わって、友達ができなくなって自殺されたと風のうわさで聞きました。イジメがあったのかが疑われます。

積木くずしでも、親が俳優であったことと、腎臓が悪く薬の影響で髪が赤かったことから不良に目をつけられて負傷させられたことがきっかけで不良になっています。

ルイさんは、芸能人になってもおかしくないほどの美人でしたから、私のいた「積木くずし」中学の不良女子のターゲットになったのでしょう。繊細で、ストレスに対して弱い感じのルイさんだったので、自身が不良になって仕返しするとかせずに、突発的に自殺したんだと思います。

1980年前半は、イジメはそれほど陰湿なものはなく、不良やツッパリが生の暴力や暴言を吐いていたので、それが原因でしょう。学校側が真相を究明することなんて、あの当時、あの腐った「積木くずし」中学ではありませんから、真実はわからずじまいです。

自殺したのがルイさんの部屋で、2段ベットにヒモを掛けて首を吊っていたとのことです。 第一発見者が同じ部屋を使っていた妹のミカさんで、非常にショックを受けていました。

そして、このミカさんが、「積み木くずし」の主人公のように、不良になってしまいます。姉のルイさんに手を出した不良に仕返ししたんでしょう。その後、ミカさんは坂道を転がるように、典型的な不良少女になり、手が付けられなくなりました。

ルイさんという娘をなくし、残った娘は不良少女になってしまった現実を思うと、ご両親の嘆きはいかほどのものだったのでしょう。私も、この家族の不幸を思うと、胸が痛みます。今は、立ち直って幸せになってくれていることを祈るのみです。

 

夏にプールの授業はできない。

中学生の頃、プールの授業は半分程できませんでした。

理由は、不良連中が、授業にも出ずに朝から晩までプールに入って遊んでいて、プールを使えないからです。先生たちが、追い出そうとするのですが、プールに落とされたりして、結局は追い出せませんでした。

その後、色々と試行錯誤した有用な戦略としては、プールの授業の生徒たちが、プールの縁に座って、不良たちがプールから出ていくのを、ずっと待つというものでした。不良たちが全く出て行かない時もありますが、生徒たちの視線に耐えられないのと、プールの中で遊ぶことに飽きたのとで、出ていくこともあります。出て行った後に、プール授業再開です。

今から考えるとあり得ない状況ですが、その当時の先生たちは毅然とした態度を取らずに、不良たちに嘗められていたのが大きな原因です。

このように不良たちの王国である「積み木くずし」中学に、当時の私は嫌気がさしていました。更には、警察権力に頼って毅然とした態度を取らない教師たちにも、あきれ返っていました。今から考えると、日教組の方針等があり、教師たちも自由に動けなかったという事情があったのかもしれません。それでも、酷い状況で、真面目な中学生が馬鹿をみる状態でした。

 

唾だらけ!

松田(仮名)くんという不良がいましたが、小学校の頃は結構いい奴だったのに、中学生になって急に不良になりました。家が貧しかったということに少しは関係しているかもしれません。3人家族でしたが、6畳一間の文化住宅のようなところに住んでいました。お父さんは、長距離トラック運転手でほとんど家にいないというようなことを言っていました。母子家庭に近い環境でした。

学校に来て、机を覆うように寝て、授業中も自分自身の机のある床に、唾を吐きまくっていたので、めちゃくちゃ汚かったです。私は、気分が悪くなるので、見ないようにしていました。松田君だけではなく、他の不良も、机で唾を吐きまくっていました。本当に、汚くて不衛生でした。

 

落書き

不良の奴らの落書きは、本当に凄まじいものがありました。普通は、マジックで書くぐらいです。ひどい場合は、ペンキスプレーで、学校の塀に書く奴もいます。

しかし、「積木くずし」中学の不良は、彫刻刀で、机を彫って落書きをします。絶対に消えない落書きです。マジかとあきれ返ります。それも隠れてではなく、授業中堂々と彫刻刀で、机を彫っていました。まあ、注意して聞く連中ではないので、先生も諦めモードでした。

あとは、スプレーでライターで火をつけて、燃やしながら壁に落書きしている不良がいました。良くやけどをしないなと感心しましたが、教室が焦げ臭くなり最悪でした。さすがに火事になる可能性があるので、先生たちが大勢やってきて、力ずくでやめさせていました。正に、カオスの教室内での落書きです。

落書きで、教室内がカオスになっている時に、廊下に出て、ラジカセを大音量で聞いている不良もいました。漫画に出てくるようなツッパリ不良の学校でした。

「ここはどこなんや!」

と私は呆れかえり、ただ時が過ぎるのを待ち望むような中学時代でした。

 

 

昼休みは、校庭にバイクが走り回っている。

不良たち7~8人ぐらいが、盗んできたバイクで校庭を走りまくっていました。正に、尾崎豊の世界です。そういう状況なので、危なくて昼休みに校庭でボール遊び等はできませんでした。

校庭を、爆音を轟かせて走って何が楽しいのかなと思っていました。まだ中学生なので、同級生にかっこよく見せたかったのです。暴走族のように、公道を走っていた方が楽しいはずなので、わざわざ校庭のような狭いところを走り回るのは、同級生に見せびらかしたいからです。

これも、先生方が大勢でやめさせるように必死に戦っていました。イタチごっこでしたが、そのうち、不良たちが根気負けしたのか、昼休みに校庭をバイクで走り回ることはなくなっていきました。

返してこい!

未だに忘れられないことがあります。朝、「積み木くずし」中学に行ったら、正門を少し入ったところに、大型の国産自動車が止めてありました。先生が数人集まっていて、不良2~3人に必死の形相で、「返してこい!」と叫んでいました。

何を必死になってるんやと思い、ただならぬ状況を見守っていました。どうやら、「積木くずし」中学の不良3人が、大型の国産自動車を盗んで、無免許で運転して中学校まできたという状況でした。なんで、先生が、「元の所に返してこい。」と言っているのか、私はさっぱり理解できませんでした。

 

この不良3人は、立派な犯罪をしているわけです。大型の国産自動車を盗んだという窃盗罪、無免許で運転してきたことによる道路交通法違反です。直ちに、警察に通報して、逮捕してもらわなければならない状況です。

それを、よりによって、「元の所に返してこい!」とは、どういうことなのか?元の所に、無免許で運転して返却するように指図しているのか?返せば問題ないと思っているのか?この「積木くずし」中学の先生達にもあきれ返りました。今なら絶対にありえないことです。

この発言をしたことで、この教師たちも、刑事罰が下される可能性があるのです。今なら、スマホで録画して、親を介して弁護士を雇って、教育員会と警察に連絡することも可能です。

私の子供の中学が、こんな先生達なら、私はすぐに証拠を撮って行動します。それ以前に、先生の意識が変わっていて、先生が警察に通報するでしょう。いくら教え子と言えども、立派な犯罪を犯している場合は、きちんとした行動をとる出来です。昭和50年代の中学の先生は、未成年だからと生徒をかばい、警察に通報するということすらしなかったのです。なんということでしょう。

このことで、不良たちがもっと付け上がり、更なる悲劇が訪れるのです。

それは、後編に書くことにしますね。

 

 

管理人の小学校高学年時代

私は小学校4年生の時に転校しました。刃物のような奴だと言われ、協調性がほとんどなかったのですが、新しい学校ではその態度を改めようと、子供心にも思ったものです。一番の理由は父親からのことばです。

[chat face="father.png" name="父" align="left" border="gray" bg="none" style=""]そんな生き方を辞めて、要領よく生きた方が得や!

その方が楽に生きれるで![/chat]

生まれも育ちの大阪人の私は、「損得」には非常に敏感です。なので、尖った生き方を辞めて、表面上は柔和に生き方にしようと、心に決めたのです。

 

転校

同時期に、同じ地区に住んでいる同学年の女の子も転校してきました。佐藤さん(仮名)という背の高く、スタイルの良い美人さんでした。ただ、性格的に私とは合わなくて、全く恋心とか、好きにはなれなかったです。どちらかと言うと、お高くとまっている東京から来た感じのお嬢さん風でした。(出身がどこかは知らないが、親が自営業でそれなりに裕福でした。

なにかと、佐藤さんと私は比べられました。社交性があって、クラスに馴染むのが早かった私の方が褒められたのをよく覚えています。あと、私は自分で言うのも何ですが勉強ができた(地方の公立小学校の1クラスの中なので、大したことはない><)ので、クラスで浮くことはなかったです。あと、尖った感じを出さずに、無理にでも表面上は協調性を出すようにしたのも、功を奏しました。

転校してからは、おとなしくしていたので、非常に穏やかな小学校生活を過ごすことができました。父親の心に響く助言のお陰です。

自殺した担任

黒縁眼鏡をかけた物静かな理科の好きな男の先生が小室(仮名)先生でした。私は、小学生に元素記号を使って、理科の説明をしたりするので、非常に尊敬していました。ただ、暗い感じの先生でした。

担任の先生は、給食を私たち生徒と一緒に食べるのですが、その時、あまりしゃべらずに、周りの生徒の様子を伺っていました。その時の会話やクラスでの存在感から、生徒たちを評価していました。私としては、その時に色々と言ってほしかったのですが、その時には何も言わず、評価の時に、急に持ち出してくることに違和感を感じていました。

なんか、嫌な感じと思った記憶があります。実直で真面目な先生のイメージでしたが、暗くて、笑顔はあまり見せない先生でした。

私のクラスの担任から外れて、1年後ぐらいに、自殺されたという噂を聞きました。本当にびっくりしました。子供心に、人生は何が起こるかわからないと、感じました。あの時はほど、自殺を身近に感じたことはなかったです。自分の担任だった小室先生が自殺したんですから。そして、噂でしか自殺したという話は回ってこなかったですし、原因がないかも未だに知りません。あの当時は、自殺は恥だったのか、必死でかくしていました。

ただ、小室先生の暗い性格が、自殺と関係しているなと、子供心に思ったので、自分はできるだけ明るく生きて行かないとヤバいと心から感じたのもその時でした。

小室先生の御冥福を心からお祈りしたいと思います。

 

 

放火された音楽教師

音楽の先生で、ヒステリックな細田(仮名)という女性の20代後半の先生が来ました。生徒の間では、ホソババと言われて、恐れられ、忌み嫌われていました。音楽の授業で、自分の気に入らないことがあると、金切り声で怒鳴りたてて、指揮棒やドラムのスティックを投げつける先生でした。生徒に暴力を振るうこともありました。当時でも明らかにやりすぎで、異質な存在で、生徒たちに恐れられマジで嫌われていました。今なら、教育員会で絶対に問題になることをやっていました。

ホソババには、婚約者がいたのですが、結局は結婚できなくて、未だに音楽教師をつづけていているという噂がまことしやかにささやかれていました。当時で29歳と言ったら、完全に行き遅れ(死語で、もう結婚できないことを指す)、そのフラストレーションで、生徒たちに八つ当たりしまくっているとの話がありました。兎に角、すごい厚化粧で、ちょっとしたことでヒステリックに金切り声で怒りまくるのには、私も閉口していました。

ある日、音楽室のカーテンが燃えていました。それを私の友達が発見して、すぐに、消火されて大事には至りませんでした。ホントの少しのボヤという結果でしたが、発見が遅れれば、大きな火事になって、音楽室が全焼するところでした。音楽室は、音楽の先生であるホソババと生徒しか使わないので、ホソババに恨みのある人の犯行でと推察されました。それにしても、放火するとはよっぽどのことだと驚きました。結局犯人は見つかりませんでした。

ただ、ホソババは相当ショックを受けたようです。そのショックで反省して、ヒステリーを止めたということはなかったと記憶しています。ホソババのヒステリーは病気だと生徒の間でも有名でした。このヒステリーのために、婚約者とも結婚できなかったと噂されていました。今振り返ると、マジで病気だったんでしょう。

まあ、ヒステリーを起こして理不尽に生徒に金切り声を上げて、物を投げたり、暴力を振るったりするなんて、犯罪でしょう!こんなことが昭和時代は許されていたなんて、恐ろしい時代です。放火するほど心を病んでいた児童がいたというのが、何よりの証拠です><

 

お盛んな6年生の時の担任

同じ体育教師の20代の先生に手を出す

これは私が6年の時の担任の先生だったスナオ先生(仮名)の話です。小学校で体育が得意な先生でした。金縁の眼鏡、金歯、金時計と笑えるような先生でした。40代前半でしたが、結構、親分肌で、面白いことを言う、格好いい先生でした。

スナオが何を思ったか、クラスで勉強の出来る5人を休みの日に模試に連れていくと言ってきました。模試のお金はもちろん各家庭が払わないといけなかったのですが、???でした。しかも、クラスで成績の良い5人だけって、今考えればエコひいきで大問題になりかねません。私は中学受験する予定もなかったので、断ろうと思えば断れたのですが、担任の先生がわざわざ声をかけてくれたのだから、普通の模試とは違って大きな意味があるのだろうと思っていました。

しかし、当日、スナオひとりではなく、同じ体育教師のかわいらしい20代の先生も一緒でした。私は、なんでだろうとは思いましたが、小学生なので深く考えていませんでした。模試が終わって、その模試が特に素晴らしいということもなかったですし、スナオが成績を聞いてくることも、私に中学受験を勧めることも、更に同じ模試の最終中学受験テストに連れて行ってくれることもなかったです。

今、考えると、どうもそのかわいらしい20代の体育の先生と不倫していたとしか思えません。会場に送って、帰りピックアップしてくれたのですが、小学校6年生なら一人でも行けます。わざわざ二人の先生で引率するのはあまりにも不自然です。5教科のテストでしたから、結構な時間があったので、その間少なくとも二人でゆっくりとデートする時間はあったとしか思いません。

もう、わざわざ教え子の模試テストで、このような機会に使うのは辞めてもらいたいものです。中学受験した方がいいと本当に思っている訳でないのに、私を誘い出すのは期待するので辞めていただきたいです。私の心の中では、中学受験したかったのですが、両親がそんな裕福ではなかったので、させて貰えませんでした。

もしこの模試で成績が良かったら、スナオが私の両親に中学受験を勧めてくれるのかと期待しました。しかし、成績すら気にしてもらえませんでした。ショック!です。

真相は本人には聞いていませんが、疑わしい行動だったことは間違いありません。

 

教え子に手を出す

スナオには、私は結構かわいがっていただきました。小学校の卒業式の時に、「お前だけは、成人になったら、俺のところに尋ねてきてくれ。どんな大人になっているか本当に興味あるから。」と言われました。以前には、

[chat face="津川部長.jpg" name="スナオ" align="left" border="gray" bg="none" style=""]お前はサラリーマンにしかならん。[/chat]

と言われ、同級生からは、

[chat face="子供.png" name="同級生" align="left" border="gray" bg="none" style=""]夢も希望もある小学生に対して、担任の先生が、夢のないサラリーマンにしかならんというのはよっぽどや!

怒らなあかんぞ!

[/chat]

と言われたのを今でもはっきりと覚えています。

と言っても、スナオのことは私は好きでした。おもろい、人間味のあるいい先生だったと思います。

模試に行ったその当時の同級生のヒノマサと一緒に、22歳ぐらいの時に、スナオと飲みに行きました。結構感激してくれていました。たまたま、ヒノマサと私は一緒の大学だったので、繁華街で飲みました。スナオは、小学校の近くの飲み屋が良かったと言っていたのが、印象的でした。

あと、私の小学校時代の同級生の女性と、関係を持って、

[chat face="津川部長.jpg" name="スナオ" align="left" border="gray" bg="none" style=""]えらい高くついた。[/chat]

と言っていました。その女性は、バツイチで、

「先生、泊まって行って!」

と言われて、泊まったら、そういう関係になってしまい、その後別れるためにだいぶお金を使ったと、ヒノマサと私に言っていました。

「やっぱりな~~~」

と私は、心の中で思っていて、模試の時の女性体育教師ともそんな関係になったんだろうな~~~と思っていました。

スナオ曰く、

[chat face="津川部長.jpg" name="スナオ" align="left" border="gray" bg="none" style=""]年取ったら、全然おもろないで!若いうちや!

全くモテへんようになる。お金払ったら、チヤホヤしてくれるだけや!悲しいわ!

[/chat]

凄い先生やな!

憎めない愛すべき6年生の時の担任の先生でした。この先生に出会えたことは、私の宝物です!昭和の時代は、ホソババのような最悪な先生もいましたが、スナオのような素晴らしいい人間味のある先生もいました。どちらも昭和時代が生み出した規格外の先生でした!

校長先生から怒られた!

ヒノマサと私の読書感想文が優秀だったので、昼休みの時間に、放送室から全生徒に向けて発表するように言われました。1学年4クラスしかありませんでしたが、その中で2名だけが選ばれました。その2名がスナオのクラスの私達だったからびっくりです。非常に名誉なことなのですが、その当時は、わざわざ昼休み時間に放送室で放送しなければいけないので、正直嬉しくなかったです。

気心の知れたヒノマサと二人だったので、笑かしながら読書感想文の放送を、全校生徒向けに昼休みにしました。放送室で2人きりだったので、全校生徒相手に話している感覚は全くなかったです。ただ、いつものようにふざけ合っていた感覚でした。

ただ、それが校長の耳に入ったから大変でした。スナオにえらい怒られて、校長先生の前に謝りに行かされることになりました。なかなか校長と話す機会はなかったのですが、

校長曰く、

「今後は気を付けるように!全校生徒の模範となるべきあなた達が、このようなことでは困りますよ!」

私は心の中で、「優秀な読書感想文に選ばれたばかりに、えらいとばっちりで損した」とあまり反省はしていませんでした。

「6年生やから今度はないもんね~~」

と、学校で何してるかわからん校長のお説教を聞いていました。今思えば、校長と直接話せるすごい機会で、感謝すべき思い出です。

転校してからの、小学校生活は、ホソババを除けば完璧に素晴らしいものでした。

 

 

 

管理人の生い立ち

幼いころ

いちばん最初の子供の頃の記憶は、3歳ぐらいの頃だろうか?

風呂の空だきを母親がしてボヤをだして、両親が必死に慌てふためいていたことがかすかに記憶として残っている。

それ以降の記憶は、保育園の頃だろうか?保育園に通っていて、一人大きなプラッチック性の土管の中に隠れていたことを覚えている。

あと、保育園の女の先生で綺麗な人が人がいて憧れのようなものを感じていた記憶がある。

あと、悪ガキの足立くんがいて、よく喧嘩したことを覚えている。泣かされていたり、した記憶がある。「タイヤの軸の曲がったミニカー」をくれるといったので、それを家に持って帰って、父親に直してもらい、遊んでいたら、返せと言って取られた記憶がある。未だに覚えていることから考えても本当に悔しかったのである。本当にやんちゃで、どんなところでも生きていける悪童である。あれが、勤務医の息子かと思うと、驚くしかない。

 

一人っ子で、父親が42歳、母親が38歳の時に生まれた子供なので、自由奔放に育って、本当に幸せだったと思う。保育園で、足立くんのような悪ガキにコテンパンにやられて強くなっていったのである。

 

小学校低学年の頃

小学校低学年の頃は、よく問題児扱いされた。「勉強はできるけど、他人との協調性がない」と書かれまくった。

父親は、「協調性などなくていい。個性が重要だ」と私を擁護してくれたことを覚えている。

小学校の低学年の頃は、一人浮いていて、同級生からは仲間外れのような感じであったが、いじめられた記憶は全くない。ひとつは、喧嘩がそれなりに強くて、キレやすかったことがあるのではないか?自分より喧嘩が弱いと思っている奴に、喧嘩で負けると再度しかけて、勝とうとしていたのを覚えている。

小学3年のころ、あからさまに馬鹿にされたことを言われたので、気がつくと勝手に足で蹴っていた。大きな喧嘩になると覚悟していたのに、応戦してこず、相手が本当にあんぐりして、「おまえは、刃物のような奴やな。」と言われたのを鮮明に覚えている。

おそらく、私はアスペルガー症候群だったのだと思う。

 

ガマアンパン

小学校の卒業論文でも書いたが、小学3年生のころ、自習時間に番長のガマアンパン(僕のつけたあだ名)の誘導により、クラスの大半が「鈴木が悪いと思う人」と手を上げられたことを鮮明に覚えている。いつもなら、喧嘩になるのに、その時だけは、悲しくてそのような気持ちにならなかった。

ガマアンパンが主導するドッチボールの練習に私だけが参加せず、同級生になじられたことがあるが、ガマアンパンが、「あいつはええんや。しゃあない。特別や。」と言ったことを覚えている。

そっぽを向いて帰ったが、かなり嬉しかった。認められていると感じた。ガマアンパンの家に遊びに行った記憶がある。何で一緒に遊んだのか不思議やけど、子供だから幼かったので何も考えていないのかもしれない。そこで喧嘩になって泣かされたが、ガマアンパンの両親は生活に追われていると言った感じで、「やめとき」と一言言ったきりだった。こんな家庭やから、ガマアンパンがのさばるんやと子供ながらに思った。

 

一回だけガマアンパンに喧嘩で勝ったことがある。その時は、本当に殺してやろうと迫真の気概で戦ったのを覚えている。ほうきを取り出して思いっきりどついたのを覚えている。悪いことをしたもんだ。ガマアンパンが引いてくれたから、大事にはならなかった。

あの時は、本当に嫌いでこの世からいなくなれば良いと思ったのに、今ではガマアンパンがどうしているのか知りたい気がする。小学生の低学年の頃は、「ガマアンパンはヤクザにしかならん。」と本気で考え、世の中のために潰しておく存在やと思っていたが、ひょっとしてやり手の仕事人になっているかもしれない。

50歳を過ぎた今でも8-9歳の頃のガマアンパンの顔だけははっきり覚えている。他の同級生の顔や名前は一切覚えていないのにである。ただ、ガマアンパンの本当の名前は覚えていないので、探す手立ては少ない。立派な人間になっていてほしいと今では心から願っている。

小学生の低学年の頃は、自己主張せずに何にも言わない羊みたいな同級生は、生きる屍だと思っていた。ガマアンパンは嫌な奴やけど、一目は置いていた。私は体が小さかったため諦めたが、この頃はガキ大将を目指していた。それも小学校3年生の終わり頃、転校する前の話である。

ヒステリー女教師

小学校低学年の頃の女の先生には、本当に心の狭い、ヒステリックな先生がいたのを覚えている。確かその女の先生は私の担任であった。

彼女が休みで、授業が自習の時に、男の先生がよせばいいのに、

「今の担任の先生に対して思うことを正直に書きなさい。担任の先生には絶対見せないから」

と指示した。

私は、確か山下くんと一緒に、悪ふざけで思いっきり担任の先生の悪口を思いっきり書いた。今となっては具体的にどんなことを書いたかは全く覚えていない。ただ、思っている何十倍以上の悪口を書いたことだけは事実である。

それを担任の女の先生が読んだから、大変なことになった。えらい剣幕でヒステリックに怒って、挙句の果てには親を呼んで来いとのことであった。

その当時「万代百貨店」という安売りの店で販売員としてパートで働いている母親のところに行ったのを覚えている。母親が働いている姿を見たのは、このときが初めてである。「なんか、学校に来てくれと先生から言われた。」というと、母親から「今は忙しいから行けないわ。」とのつれない返事をもらったのを覚えている。

この話を聞いて、父親が

「お前はアホやなー。そんなん要領よく書いとけば良いのに。まあ、今回のことなんて気にする必要はないわ。」

と暖かく言われたのを覚えている。

約束を破った男の先生も先生だが、ヒステリックに親の呼び出しまでかけた担任の女の先生も先生である

ただ、上のヒトの悪口で、自分の立場が追い込まれることは、骨身にしみて学習出来たのは幸いであった。今思うに、母親は普通の人だったのに、父親は本当に良くできた人てあった。

 

ひどい担任教師

もう一つ小学生低学年のことで覚えているのは、小学校の図書館で本を借りて、返却したのに、返却していないと担任の女の先生から叱られたことである。

その頃の私はshyだったので(というか小学2,3年生でしっかりしている人がいるだろうか?)で言い返せなかった。

結局、返却されていることが判明したのか、その後文句を言われることはなかったが、未だに覚えている。

子供心に非常に傷ついたのである。

そのようにして人は成長していくのであろう。事実と反応の間にはスペースがある。事実をどう受け止めるかの選択は自分自身で決めれるのである。この事実に対して腹を立てるか、成長するための苦い経験だったとして気にしないかは私の選択である。ここに、人生の幸せになる秘訣がある。事実をいいように受け止めれば、バラ色の眼鏡(フィルターを通してみれば)人生はバラ色である。

家庭は砦であった

小学低学年の時は、私は問題児であったと思うが、家に帰れば、自分の王国であったことが何よりの幸せであった。

実際に、言いがかりみたいなことで、家に怒鳴り込まれたことがあったが、母親が逆に怒りまくって、かつ父親が相手にせずに、何事もなかった。一人っ子だった私は、なんやかんや言われていても、両親には非常に大切にされていたのである。

外で、ガキ大将にいじめられたり、担任の女教師にめちゃくちゃな扱いを受けても、家に帰れば、すべてから守って貰えるという安心感が何事にも代えがたかった。色々とあったけれども、この点で、本当に幸せな小学校の低学年時代を過ごすことができたのである。

そして、このことが私の人格形成に非常に良い影響を与えたのだと思う。そういう意味でも、両親には感謝しても感謝しきれないのである。