fronteのブログ

リストラ離婚 中高年リーマンの半生

自殺した祖父

父方の祖父のこと

祖父は、祖母の実家の家業を手伝うという感じで何にもしていなかったのであろう。見栄っぱりだったそうである。金もないのに、男爵とゴルフに行っていたのだから恐れいる。父から聞いた話である。祖母はそれに対して何も言えなかったそうである。結局、倒産してしまったか廃業したかのどちらかだろう。

父は高校を出てすぐ18歳から働き出して若いころから両親に仕送りしていたようである。祖父は、若いころは奉公先のお嬢さんをひっかけて、駆け落ちして結婚して、その親元の財産を食いつぶし、挙句の果てに、年をとったら子供の仕送りで生きていこうとするのだから恐れ入る。私が小学生の高学年の頃、この話を直接聞いて、祖父に大きな嫌悪感を覚えた。それ以来、祖父のことは好きになれない。

自殺

祖父の最後は悲惨であった。結局自殺したのである。一回目は列車(国鉄)に飛び込んで自殺未遂。それで死に切れなかったそうである。何でも国鉄にかなりのお金を父が払ったそうである。1分ごとに料金が加算されて驚いたと話していた。その時、祖父を父が見舞いに行ったが、別人のように大変弱っていて、

「生きていることが可哀そう」

に思えたそうである。父が子供のころは、祖父は偉そうで、よく殴られたとこぼしていた。私は父に殴られた記憶はない。父が働き出してから仕送りしても、祖父は当たり前のように偉そうに受け取っていたそうである。その祖父が自殺未遂の際は

「迷惑をかけてすまん。」

とベッドで弱弱しく父に初めて謝ったそうである。父が祖父のことを

「ぬけがら」

のようだったと言っていたのが印象的であった。結局、その後間もなく山口県の山林の木に紐をぶら下げて首つり自殺してしまったそうである。この際も、木を買い取って、お祓いをしてもらって関係者に謝罪してと、父は祖父のためにかなり大変な想いをしたとのことであった。それでも、父は祖父のことを

「あのまま生きていても可哀そうなだけだったから、これで良かったんじゃないか。」

と祖父を思いやっていた。それを聞いて、好きにはなれなかったが、祖父には祖父なりの苦労もあったのであろうとは感じた。

生きることを楽しむのが人生の極意だが、それができないと祖父のような悲惨な結果になってしまうのだろう。それに関しては、やっと今同情できるようになった。祖父への嫌悪感が今やっと和らいだのを感じた。

このように過去を文章にして整理していくことは、私自身にとっても非常に有意義なことだと感じる。話を元に戻すと、良くこんな祖父で父はヤケにもならず生きてきたなと感心している。しかも、子供の私に対しては、非常に優しかった。祖父を反面教師として、私に接してくれていたのであろう。有難いことである。結局、周りに対して優しくなれない人は、不幸な人生を歩むのではないか。

「情けは人のためならず。」

結局、他人に優しくすることは自分に返ってくるのである。逆もしかり。祖父は、あの時代だったから祖母から離婚されなかったのであろう。しかし、それが良かったかは別問題である。どちらにしても自らの命を絶つことにつながったことは、悲劇であろう。

「No way out」の精神状態は私にも理解できる。実は大学生の頃、私もそのような精神状態になったことがある。

 

父方の祖母のこと

祖母の記憶はほとんどない。私が小さい頃、祖母と両親と私の4人で、一緒の家で暮らしていたことがある。ただ、母親が短気な性分で、かつ私が腕白過ぎたので、上手くいかなかったそうである。そのため、父の妹の家に住むことになったそうである。物心ついてからは、私は祖母に一度も会っていない。遺影の写真でしかみたことがない。

一通の手紙

ただ、小学生のころ、授業で「おじいちゃんかおばあちゃんに近況を伝える手紙を書く」ことになった。私には、父方の祖父しかいなかった。母親の両親はすでに亡くなっていた。そのため、祖母に初めて近況の手紙を書いた。それを、祖母が本当に喜んでくれたそうである。

下関にいる叔母から父に御礼の電話があり、祖母から直接私宛に手紙が届いたのを覚えている。祖母からも直接手紙が私宛に送られてきた。昔の人が書く文字で、読みづらかったのを覚えている。

お葬式

祖母に関しては、お葬式に出席した記憶がある。私が確か中学1年生ぐらいの頃だったと思う。下関の叔母の家まで行った記憶がある。叔母は、祖母に似たのか、背が低く、顔が小さく「グショッ」としていて、とても美人とは言い難い。私の父や叔父は背が高く、すっきりとした男前の顔立ちとは大きく違い、びっくりした印象がある。

え~~~~~フロンテ家の女性はハズレ?と思ったが、もうひとりの叔母(父の妹)は、父親に似ていて、背が高くてスッキリとした顔立ちの美人であった。

祖父に似ているか、祖母に似ているかでこれだけ大きく違うのである。その下関の叔母さんの子供たちも皆背が低く、正直ブ男、ブスの印象が強かった。

美人な姪

しかし、叔父さんの子供は違った。晴子さんとしておこう。実は名前は忘れてしまったのである。晴子さんは、スラッとした美人であった。セーラー服を着ていたのでそれがよく似合った。私は思わず「へー、同じ親戚でもこんなに違うんだ。」と思った。晴子さんも一人娘である。お葬式の食事のあとの食器とかを進んで片付けて、やたら褒められていた。男女の違いがあるので助かったが、それでも私が肩身の狭い思いをした記憶がある。

叔父さんの奥さん(晴子さんの母)は、看護婦婦長でかつ、国立大学で講師までしていたひとである。晴子さんの母は、サッパリとした男性のような気性であった。そのため家事はほとんどせず、叔父さんかA子さんがいつもしていたようである。だから晴子さんは、後片付けはお手のものだったのであろう。

晴子さんは、美人で素敵な人との印象をその当時の私は持っていた。マジで親戚でなければ、お付き合いして結婚したいと思った。

 

結婚した美人な姪

祖母のお葬式の印象は、晴子さんの美しさと性格の良さが主であった。後日談として、晴子さんは内装業をしているツッパリのような男性とできちゃった婚をするのである。なんでも、一人暮らしをしている晴子さんさんのところに、内装の仕事できた彼が一目ぼれをしたそうで、そこから交際に発展しでき婚になったそうである。それだけ彼女は世間一般の目から見ても美人だったのだろう。

母親がその結婚式に出席したので、写真を見せてもらった。祖母のお葬式の印象が強かったので、さぞ綺麗だろうと期待していたら、正直期待は裏切られた。確かに綺麗ではあったが、ヤンキーっぽくなっていた。私の嫌いな感じの女性の雰囲気があった。類は友を呼ぶで、ツッパリのような男性とのでき婚もうなずけた。やはり、美しさには後天的なものも加わるのであろう。

輝きを失った晴子さんさんの写真を複雑な思いでみた。月日の流れは、このように人を変えていく。私もnegativeではなく、positiveに変身していかなければならないと切に思った。