管理人 - 小学校時代の忘れえぬ思い出―2
タジさんー父親の友人
同じく高槻市の栄町にいた小学校低学年の頃、近くに工務店があった。タジさん(あだ名)がオーナーの小さな工務店である。父は自分自身のことを
「趣味を全く持っていない」
人間と形容していたが、日曜大工には非常に凝っていた。私から言うと日曜大工が父の趣味だったのだと思う。ただ、父は
「おれは平社員で給料が安いから、必要に駆られて日曜大工をしているのであり、これは趣味ではない。金持ちならこんなことやってへんわ。」
と反論していた。しかし、電気のこぎりや電気カンナもあり、玄人なみの道具を揃えていた。カナズチで釘をたたくのもうまかった。実際、引っ越し前の家は父がかなりリノベーションしていた。自分で土壁のようなにもしていたし、到底私には真似できない。洗濯を干す場所や庭の花壇とかも造っていた。そのため、タジさんとは良くやり取りがあり、お客さんの域を越えて友人関係になっていた。
家を増改築する時は必ずタジさんに頼んでいた。料金も割安だったと思う。父が亡くなった時に、父の葬式にわざわざ来てくれたことを今でも覚えている。喪服ではなく、スラックスにセーターで来てくれたのだから印象深かった。おそらく喪服は持っていないし、全く似合わない印象がある。
家庭がバラバラになる
タジさんの家庭は、娘さんが3人いた。奥さんも働き者であった。ただ、お店が軌道に乗っても、田路さんが大工仕事をして疲れて帰ってきているのに、工務店で売っている材木の配達や集金などに行かされたそうである。それに嫌気がさして、田路さんは奥さんを置いて出ていってしまった。水商売の女とどっかにいったと母が噂話をしていたのを覚えている。
その後、お金の切れ目が縁の切れ目で、その水商売の女とも別れて、タクシーの運転手をしていると母から伝えきいた。奥さんとは別れたのだろうか。もうタジさんの工務店は今は店じまいしていると思う。それにしても、最後まで幸せな家庭はなかなか続かないのであろうか?やまちゃんにしても、タジさんにしてもなぜか不幸な結末である。
和田さん(仮名)ー父親の友人
父の友人に和田さんがいた。
この和田さんとは、本当に私が小学生の頃から家族ぐるみの付き合いであった。日曜日には、和田さんに家に父親と一緒に行って、趣味である造園(庭づくり)の話をしていた。和田さんの家の庭も立派なものだったという覚えがある。和田さん(男性)は、父と同じ会社に勤めていたが、仕事のできる人では全くなかったようである。
もともと漁師の息子であるが、漁師がいいと未だに言っていたのを覚えている。漁師では生計が立たないからサラリーマンとして今の会社に勤めたことを忘れたかのような言葉である。解釈好き(物事を独断で判断してその説明を私たちにしていた)のセコイ人(お金とかには細かいらしい)という印象がある。
いまだに「フロンテくん」と私のことを呼んでくれるので、ある意味有り難いものである。私は父方及び母方の祖父母からお年玉等をもらったことがない。お金のない父方の祖母を除いて、全員が鬼籍に入っていたためである。父方の祖母とは、物心がついてから一度も会ったことがない。しかも一人っ子だったため、大きな家族に憧れていたところがある。
ただ、夏休みには、母方の親戚とともに、1泊2日で那智の滝とかの観光名所に遊びにいったことを今もよく覚えている。小家族の私にとっては、楽しい思い出である。
和田さんの息子さん
名前は忘れたが、和田さんには二人の男の子供(兄Aと弟B)がいる。弟Bは若年性糖尿病だったため、私や兄Aとは全く違うものを食べていた。根が暗いという印象がある。
兄Aは、あまり勉強ができなかったらしく、といいうか勉強が嫌いで和田家の教育方針としても高校卒業でよいと考えていた。そのため、高校を出るとあのトヨタ自動車に親戚か友人のコネで勤めたと聞いている。入社後数年で、頭の悪い三流大学出の社員が、大卒ということで自分よりも優遇され非常に悔しい思いをしているという愚痴を聞いたことがある。
2010年に私の母親ことで和田さんの奥さんから電話があり色々とやり取りしているうちに、兄Aは結婚して子供もいるそうであるが、専業主婦をしていた兄Aの奥さんが家計を助けるために働きに出て、その職場で出会った男性と子供も残して駆け落ちしたという話を母親から聞いた。そのため、和田さんは兄Aとその子供たちの面倒をみるために、トヨタのある名古屋に引っ越したとのことである。だから、和田さんが急に名古屋に引っ越したんだと合点がいった。しかし、こんな身近に奥さんに逃げられた人がいるとは驚きである。
弟Bは、高校を卒業して真面目に働いて、結婚もして幸せな家庭を築いているとの噂である。
有料老人ホームの母への気遣い
初めての老人ホーム
2008年ぐらいに、有り難いことに、和田さんの奥さんから母親のことで電話がかかってきた。その頃は、すでに母は老人性痴呆症で少しぼけていた。そのため、実家の近くにある24時間看護の有料老人ホームで暮らしていた。そのころは、
「一人暮らしがしたい。」
が口癖で、こんな酷い所に入れるなんてとんでもない息子であると周りに触れ回っていた。24時間看護の有料老人ホームは、月20万円は支払わなければならない、私にとっては非常に高価な老人ホームであり、母には私なりに精一杯のことをしているとの認識である。ただ、ボケているため、老人ホームでものが取られるとか、苛められているとか、あることないことを訴えていたのは事実である。
そして、母が今までの記憶を頼りに、泣きながら和田さんの家を訪ねたそうである。私は、子供のころ、やんちゃで口が悪い悪童(?)だったので、私が母親不幸をしていると咄嗟に思ったらしい。そして、電話口で
「一人暮らしをしたいと言っているから、それを叶えてあげたらどうか?」
ということを言われた。わざわざ一度、24時間看護の有料老人ホームにも訪問してくれたようである。母親はとにかく
「24時間看護の有料老人ホームで虐められている、物が盗まれる、信孝にひどい所に入れられた。毎日泣いて暮らしている。」
と訴えたそうである。そのため、
「今の有料老人ホームを出るようにして、一人暮らしをさせてあげて!!!」
と和田さんの奥さんから要請された。
ただ、時間がたつと母が言っていることの整合性に矛盾が出てきたりして、事情がわかってくれるようになりそれほど非難もされなくなった。更には、一人暮らしより24時間看護の老人ホームの方が安心であることも理解してくれるにいたった。
親切な人である。何回も母親に電話で連絡をくれたり、私にも色々と連絡をしてくれた。ただ、和田さんは、長男の嫁が駆け落ちしたため、長男の子供の世話をしなければならなくなったので、名古屋に引っ越していったため、その後は疎遠になっていった。
新しく転居した老人ホーム
母親を、私の転勤に伴い、別の24時間看護の老人ホームに移した際に、母親に電話連絡が取れなくなったと、和田さんの奥さんが、私にコンタクトしてくれた。その後すぐに、和田さんの奥さんは、私の母に連絡をして、今の老人ホームの方が幸せそうに暮らしているとの連絡を、私にわざわざしてくれた。有難いことである。
実際、新しい老人ホームでは母には沢山のお茶飲み友達がいて、いつも食堂で楽しそうに喋っているようである。ただ母本人に聞くと
「どんなに親しくしていても私の部屋に入ってきたりするので、物を盗まれる可能性があるので気をゆるしたらあかん。他人には気をつけんといかんよ。ヒトを見たら泥棒と思えだ!よく覚えておきなさい!」
と私に説教する始末である。老人性痴呆症のためか、猜疑心が非常につよくなっている。悲しいことである。もう少し肩の力を抜いて、人生を楽しむように生きたらどれほど素晴らしい事か。
もう80歳なので、残り少ない余生を心静かに楽しみながら生きてほしいものである。これは私自身にも言い聞かせていることである。人はいつかは死んで土に帰るのだから。
母は最近自分の年を88歳と言い張るようになっている。面白いものである。ヒトは成人するまでの若いころは大人になりたがり、年を上にごまかそうとする。やがて大人になると、70までぐらいは、若く年をごまかそうとするが、70歳を超えて老人になると、今度はまた年を上にごまかそうとする。かなり高齢の老人だから大切にしてくれという気持ちが出るのであろうか?
感慨深い
タジさんにしても、和田さんにしても、親戚でもなく、全くの他人なのに、まるで家族のように接してくれたことが、本当に有難かった。あの当時は、濃い人間関係が嫌だったけれども、
今はもうそのような人間関係もなくなってきたので、非常に懐かしく感じる。時代は確実に流れている。