fronteのブログ

リストラ離婚 中高年リーマンの半生

管理人の父と母 ― 当時ではありえない晩婚

二人が結婚した馴れ初め

父親と母親の馴れ初めであるが、友人の結婚式で出会ったそうである。というか、結婚した友人に紹介されたというのが妥当かもしれない。父が40歳ぐらいで、母が37歳ぐらいの時であろう。母は滋賀県の実兄のところに同居していたそうである。父のプロポーズの言葉は、

「借金があるけど、一緒になってくれないか?」

というものであった。母の実兄は、借金のことを聞いて大反対だったそうだが、母は、このまま居候して一人でいても仕方がない。借金は二人で返せばよいということで、プロポーズを受けたそうである。

実は、借金というのは嘘で、小さな家を買えるぐらいのお金を父親は持っており、プロポーズを受けてもらった時点で、

「じゃ、二人の新居を買いにいこう。」

となったそうである。母的には感動して

「かっこいい」

と惚れ直したそうだが、私は今の年齢になって冷静に判断するとあまり感動はしない。結婚前に借金があると嘘をついていた、借金があっても結婚してくれるかどうか試した、この2点において、試されたとしか私なら感じない。ちょっとひねくれているかも。ただ、母としては借金を返さないといけないと思っていたのが、小さな家まで購入できたのだから、万々歳で手放しで喜んだのだと思う。

 

母の実母が反対したように、下手をすると結婚が流れてしまう可能性があった点である。私は「一緒になってくれないか?」

だけでいいじゃないか?劇的な(?)演出はリスクが高いと感じた。まあ、

「愛情を試そう」

との意図は全くなかったのかもしれないが、嘘はよくない。父親の美学だったのかもしれない。私は今でもその美学は尊敬しているし、そのお陰で男性は女性にどうふるまうべきかを学んだような気がするが、よほどの理由がない限り、ヒトを試すような嘘は辞めておくつもりだ。

母は父親と結婚するまで付き合ったことがなく、命がけで結婚に突き進んでいったので、父が恐ろしかったと言ったのを覚えている。母は堅物で不器用で、30後半まで独身だったのは理解できる。下手をするとそのまま、実兄の家で「イカズゴケ」でそのまま居候し続けていたかもしれない。

 

年上の女性には気をつけろ

父親は40歳までなぜ独身で、小さな家を買えるほどのお金を貯めていたのか?それは、父親が飲み屋の年上の女性と同棲していたからである。これは、父親が私に「年上の女性には気をつけろ。」と口を酸っぱくなるほど言い、その実例(失敗例)として敢えて自分自身のことを話してくれたものである。母親はそのことを知らなかったようである。

 

父はスリムな体型の2枚目であった。胃下垂でどんなに食べても太らない体質で、死ぬまで髪の毛も黒々としていた。小さな飲み屋の年上の女将さんに惚れられて、術中にはまって長い間同棲していたとのことである。

「年上の女性は、かゆい所に手が届く。本当に気をつけないといけない。年上の女性とだけは付き合うな。」

と何度も言っていたのをはっきりと覚えている。なんでも大変だったそうである。

昼は、勤め先の大手企業で会社員として働いて、夜はその女性が営んでいる小さな「飲み屋」を手伝っていたそうである。

「会社員をやめて、飲み屋だけにしようか」

と思ったこともあったそうだ。

 

しかし、真面目に会社員をし続けたお陰で、母親と結婚して、私ができて今に至るのである。人生とは、ちょっとしたことが非常に重要になったりする。

兎に角、これぞと思ったことを、嫌でも惰性でも何でもいいから続けることである。これが人生で失敗しないための最低限の方法であろう。その女将には、大きな子供がいたみたいである。詳しくは聞いていないが、その女将が病気(?)でなくなった時に、父は葬式にも出席したそうである。その際に、

「最後までよく面倒をみてくれた。」

と、女将の子供に感謝されたそうである。女将の子供は、父と女将の関係を、最初はお金目当てと断定していたが、父が最後まで女将から金をもらうこともなく、むしろ持ち出しだったことをみて、そう判断してくれたのだろう。

それにしても、父は損な性格である。言葉を悪く言えば、こんな年上女にいいようにされたのである。

「この女将はうまいこと生きたなー」と私は純粋に思ったりもした。

詳しいことは父は語らなかったが、人目を忍んだ同棲生活だったようである。そんな生活はあまり良くなかったとは本人の弁である。たぶん、生涯独身で暮すと父親は覚悟してそうである。

今とは違い、女性は21-22歳でほとんどが結婚していた。40歳で結婚しようにもそんな相手はほとんど存在しなかった。今とは全く違うのである。

 

そのため、年を取ってから一人で老人ホームで暮らすための資金を貯めていたとのことである。非常に堅実なところは堅実なのである。そして、母親と出会い第二の人生が始まったのである。このように人生はいつからでもstart overできるのである。

それにしても、父もこの女将に対しては色々と思いがあったのであろう。「年上の女性には気をつけろ。」と私に刷り込みのように言っていたのだから、やられたとの後悔も多々あったと思う。

しかし、恋は盲目で、その当時は同棲までしてしまうのだから、相当なものである。当時の会社は、個人生活まで厳しく管理しており、同棲は反社会的な行為と思われていたので、父は会社には全く報告していなかったし、ひた隠しにしていたそうである。それでも同僚は会社の人間に知られていたとのことである。

 

私は、この父の刷り込みのお陰で、年上女性に魅力をあまり感じなく、むしろ敵愾心のようなものをいだくような感じであった。そのため、年上女性と付き合ったことは全くなく付き合いたいとも思わなかった。

「フロンテ君はお父さんに似ているから、本当に気をつけないといけないよ。」

と何度も言われていた。

「年上女性=男をたぶらかす酷い奴」

「父親が犠牲者だ」

との意識が常に頭の中にあったのかもしれない。

 

新築の家

小学校4年生の時に転校した。父が新しい家を購入したのに伴っての引っ越しである。もちろん、私の教育のことを考えてら教育レベルの高い場所に移ってくれた。今はもう倒産した注文建築を主体とした住宅会社で、土地60坪、建坪30坪の新築を建てた。これは私の誇りでもあった。

注文建築だったので、自分で大体の設計図を描いていた。父が本当にうれしそうに設計図を描いていたのを覚えている。私もワクワクしていた。

今思うと、昔の小さな家から茨60坪の注文建築住宅に移ってくれたことは本当に良かったと感謝している。

昔の小さな家はベニヤ板でできた安もんの家という感じであったが、注文住宅は高級感が溢れていた。自分が金持ちになったんだと感じて単純に喜んだ。

父親が、昔の家の客間で注文住宅の営業の人に手付金を支払う時に、本当にソワソワしていたのを今だに覚えている。父本人も言っていたが、「肝っ玉の小さい」ところがあると強く感じた。

注文住宅の営業の人が、そのとき家のことを「安造りな家」とつい言ってしまったのを、父が憤慨していたのも覚えている。確かにそうであった。昔の家は、昔の家で本当に色々な思い出がある。

この文書を書いていると走馬灯のように思い出してくる。今私が住んでいる家よりかなり住みにくいが、その当時はそれがスタンダードであった。時代の流れを本当に感じる。あのときは、自分は中流家庭でどちらかと言えばお金のある方ではないかと思っていたが、全くの庶民でどちらかといえば、少し貧しかったことが今になるとよくわかる。

でも、本当に幸せな家庭であった。あんまりお金がありすぎると、幸せになれないのかもしれない。マザーテレサが言っていたように、「家庭があり子供がいれば、何も持っていなくとも幸せになれる。」のかもしれない。

注文建築のいえは、棟上げをしたりしてイベントに参加できて本当に楽しかった。こんなに小さな土地に家が建つのかと子供心にびっくりしたのを覚えている。あと、担当の大工さんがいて、彼がコツコツと我が家を作ってくれていた。担当の大工さんのいるときにいくと、ちょっとした差し入れ(飲み物や食べ物)を持って行かないといけない。いけないわけではないが、そういう慣習であった。

車を持っていなかったので、よく自転車で建築中の我が家を眺めに行っていた。一度、日曜日で担当の大工さんがいないと思って行ったのに、仕事をしていたので、

「差し入れするのがもったいないから、いない時にまた来よう。」

と父が言っていたのを覚えている。この家を買うことでお金を使い果たしていたので、本当に余裕がなかったのだと今ならそう思う。が、その時は、

「珍しくせこいことを言うな。」

と、未だに印象に残っている。折角、建築中の家を見に来たのに、見れずに帰って何しに行ったのだろうと感じた。小学校低学年の記憶なので、記憶は断片的であるが、印象深いものは鮮明に覚えているのである。

古き良き昭和の光景であった。