fronteのブログ

リストラ離婚 中高年リーマンの半生

管理人の生い立ち

幼いころ

いちばん最初の子供の頃の記憶は、3歳ぐらいの頃だろうか?

風呂の空だきを母親がしてボヤをだして、両親が必死に慌てふためいていたことがかすかに記憶として残っている。

それ以降の記憶は、保育園の頃だろうか?保育園に通っていて、一人大きなプラッチック性の土管の中に隠れていたことを覚えている。

あと、保育園の女の先生で綺麗な人が人がいて憧れのようなものを感じていた記憶がある。

あと、悪ガキの足立くんがいて、よく喧嘩したことを覚えている。泣かされていたり、した記憶がある。「タイヤの軸の曲がったミニカー」をくれるといったので、それを家に持って帰って、父親に直してもらい、遊んでいたら、返せと言って取られた記憶がある。未だに覚えていることから考えても本当に悔しかったのである。本当にやんちゃで、どんなところでも生きていける悪童である。あれが、勤務医の息子かと思うと、驚くしかない。

 

一人っ子で、父親が42歳、母親が38歳の時に生まれた子供なので、自由奔放に育って、本当に幸せだったと思う。保育園で、足立くんのような悪ガキにコテンパンにやられて強くなっていったのである。

 

小学校低学年の頃

小学校低学年の頃は、よく問題児扱いされた。「勉強はできるけど、他人との協調性がない」と書かれまくった。

父親は、「協調性などなくていい。個性が重要だ」と私を擁護してくれたことを覚えている。

小学校の低学年の頃は、一人浮いていて、同級生からは仲間外れのような感じであったが、いじめられた記憶は全くない。ひとつは、喧嘩がそれなりに強くて、キレやすかったことがあるのではないか?自分より喧嘩が弱いと思っている奴に、喧嘩で負けると再度しかけて、勝とうとしていたのを覚えている。

小学3年のころ、あからさまに馬鹿にされたことを言われたので、気がつくと勝手に足で蹴っていた。大きな喧嘩になると覚悟していたのに、応戦してこず、相手が本当にあんぐりして、「おまえは、刃物のような奴やな。」と言われたのを鮮明に覚えている。

おそらく、私はアスペルガー症候群だったのだと思う。

 

ガマアンパン

小学校の卒業論文でも書いたが、小学3年生のころ、自習時間に番長のガマアンパン(僕のつけたあだ名)の誘導により、クラスの大半が「鈴木が悪いと思う人」と手を上げられたことを鮮明に覚えている。いつもなら、喧嘩になるのに、その時だけは、悲しくてそのような気持ちにならなかった。

ガマアンパンが主導するドッチボールの練習に私だけが参加せず、同級生になじられたことがあるが、ガマアンパンが、「あいつはええんや。しゃあない。特別や。」と言ったことを覚えている。

そっぽを向いて帰ったが、かなり嬉しかった。認められていると感じた。ガマアンパンの家に遊びに行った記憶がある。何で一緒に遊んだのか不思議やけど、子供だから幼かったので何も考えていないのかもしれない。そこで喧嘩になって泣かされたが、ガマアンパンの両親は生活に追われていると言った感じで、「やめとき」と一言言ったきりだった。こんな家庭やから、ガマアンパンがのさばるんやと子供ながらに思った。

 

一回だけガマアンパンに喧嘩で勝ったことがある。その時は、本当に殺してやろうと迫真の気概で戦ったのを覚えている。ほうきを取り出して思いっきりどついたのを覚えている。悪いことをしたもんだ。ガマアンパンが引いてくれたから、大事にはならなかった。

あの時は、本当に嫌いでこの世からいなくなれば良いと思ったのに、今ではガマアンパンがどうしているのか知りたい気がする。小学生の低学年の頃は、「ガマアンパンはヤクザにしかならん。」と本気で考え、世の中のために潰しておく存在やと思っていたが、ひょっとしてやり手の仕事人になっているかもしれない。

50歳を過ぎた今でも8-9歳の頃のガマアンパンの顔だけははっきり覚えている。他の同級生の顔や名前は一切覚えていないのにである。ただ、ガマアンパンの本当の名前は覚えていないので、探す手立ては少ない。立派な人間になっていてほしいと今では心から願っている。

小学生の低学年の頃は、自己主張せずに何にも言わない羊みたいな同級生は、生きる屍だと思っていた。ガマアンパンは嫌な奴やけど、一目は置いていた。私は体が小さかったため諦めたが、この頃はガキ大将を目指していた。それも小学校3年生の終わり頃、転校する前の話である。

ヒステリー女教師

小学校低学年の頃の女の先生には、本当に心の狭い、ヒステリックな先生がいたのを覚えている。確かその女の先生は私の担任であった。

彼女が休みで、授業が自習の時に、男の先生がよせばいいのに、

「今の担任の先生に対して思うことを正直に書きなさい。担任の先生には絶対見せないから」

と指示した。

私は、確か山下くんと一緒に、悪ふざけで思いっきり担任の先生の悪口を思いっきり書いた。今となっては具体的にどんなことを書いたかは全く覚えていない。ただ、思っている何十倍以上の悪口を書いたことだけは事実である。

それを担任の女の先生が読んだから、大変なことになった。えらい剣幕でヒステリックに怒って、挙句の果てには親を呼んで来いとのことであった。

その当時「万代百貨店」という安売りの店で販売員としてパートで働いている母親のところに行ったのを覚えている。母親が働いている姿を見たのは、このときが初めてである。「なんか、学校に来てくれと先生から言われた。」というと、母親から「今は忙しいから行けないわ。」とのつれない返事をもらったのを覚えている。

この話を聞いて、父親が

「お前はアホやなー。そんなん要領よく書いとけば良いのに。まあ、今回のことなんて気にする必要はないわ。」

と暖かく言われたのを覚えている。

約束を破った男の先生も先生だが、ヒステリックに親の呼び出しまでかけた担任の女の先生も先生である

ただ、上のヒトの悪口で、自分の立場が追い込まれることは、骨身にしみて学習出来たのは幸いであった。今思うに、母親は普通の人だったのに、父親は本当に良くできた人てあった。

 

ひどい担任教師

もう一つ小学生低学年のことで覚えているのは、小学校の図書館で本を借りて、返却したのに、返却していないと担任の女の先生から叱られたことである。

その頃の私はshyだったので(というか小学2,3年生でしっかりしている人がいるだろうか?)で言い返せなかった。

結局、返却されていることが判明したのか、その後文句を言われることはなかったが、未だに覚えている。

子供心に非常に傷ついたのである。

そのようにして人は成長していくのであろう。事実と反応の間にはスペースがある。事実をどう受け止めるかの選択は自分自身で決めれるのである。この事実に対して腹を立てるか、成長するための苦い経験だったとして気にしないかは私の選択である。ここに、人生の幸せになる秘訣がある。事実をいいように受け止めれば、バラ色の眼鏡(フィルターを通してみれば)人生はバラ色である。

家庭は砦であった

小学低学年の時は、私は問題児であったと思うが、家に帰れば、自分の王国であったことが何よりの幸せであった。

実際に、言いがかりみたいなことで、家に怒鳴り込まれたことがあったが、母親が逆に怒りまくって、かつ父親が相手にせずに、何事もなかった。一人っ子だった私は、なんやかんや言われていても、両親には非常に大切にされていたのである。

外で、ガキ大将にいじめられたり、担任の女教師にめちゃくちゃな扱いを受けても、家に帰れば、すべてから守って貰えるという安心感が何事にも代えがたかった。色々とあったけれども、この点で、本当に幸せな小学校の低学年時代を過ごすことができたのである。

そして、このことが私の人格形成に非常に良い影響を与えたのだと思う。そういう意味でも、両親には感謝しても感謝しきれないのである。