中高年 リストラ離婚 - リストラ離婚宣言への対応
下記の記事に私の実体験である「本当に突然に離婚を言い渡された」ことについて書きましたが、今回はそれに対して、実際にどのように対応したかについて書きたいと思います。
事業所閉鎖で入社して2週間で会社をクビになることで、妻と話し合ったと時に、強硬に「離婚したい」と言われました。私にとっては本当にあり得ない状況で、正に頭の中が真っ白になりました。その後、親しい女友達に真剣に相談したところ、上の記事に書いてあるように、「離婚した方がいいよ」という私の想いとは反するアドバイスをいただきました。いよいよ、自分なりの決断を出さないといけないと思い、今までを振り返り、分析し、前後策を考え、最終的な決断を下すことにしました。
今までを振り返った(リストラ離婚宣告で)
妻とのなれそめや結婚生活、子供ができてからのことを色々と自分なりに振り返りました。もちろん、妻とは恋愛結婚で、大学院を卒業すると同時に結婚して、アメリカに研究留学に行きました。私が、大学院の博士課程を卒業するときに、妻は大学院の修士課程を卒業するときに結婚しました。私は1浪していたので当時28歳、妻は現役だったので24歳でした。妻と私は同じ大学の同じ学部で、研究室が同じでした。いわゆる職場結婚のようなものです。
その当時、私はアメリカに2年ほど研究留学に行こうと思っていました。なので、妻には修士課程後、日本国内の企業に就職してもらい、2年後に私も日本に帰国してから結婚して一緒に暮らそうと思っていました。しかし、妻の遠距離恋愛はできないと強く言われたため、私のアメリカへの研究留学について来てもらうことにしました。アメリカに来て何もしないのは良くないので、英語の勉強をするESSのコースに入学してもらいました。
つまり、アメリカ研究留学が新婚生活の開始になったのです。
アメリカ西海岸での新婚生活
当時はまだ、1990年代で、日本とは全く違う形のアメリカのショッピングモールにワクワクしたものです。研究留学先もアメリカの西海岸でしたので、本当に素晴らしい生活を送っていました。
ただ素晴らしいだけではなく、仕事のプレッシャーもものすごくありました。2年間の間に、ある程度の研究成果を出して、日本の大学での今でいう助教授(その当時は助手)のポジションに帰れないと、野垂れ死にしてしまうという不安定なものでした。そんな不安定な研究留学に、結婚して新婚としていくのですから、今から考えると少し無謀であったと思っています。
そんなプレッシャーのなか、彼女はアメリカのベンチャー企業にテクニカルスタッフとして就職を決めました。英語学校のESSを卒業するとほぼ同時にです。非常に優秀です。
そして、1年経った後、私の研究留学先のラボのボスから、2年目の生活費を出すことができないと告げられます。1年目は日本からの奨学金で生活費を賄いました。2年目は留学先のボスから出してもらえる予定でしたが、結局は出せないという結論になってしまいました。業績は出しているラボでしたが、そのラボのボスがいわゆるブラック企業の経営者のような方でした。いま思えば、研究留学先のラボを完全に間違えてしまったことになります。本当に、ブラック企業のようなひどい所でした。(詳細は、機会があればブログの記事にしたいと思っています。)
生活費を出してもらえないので、2年目は別のラボに移ることになりました。幸運なことに、日本の知り合いの先生の推薦により、同じアメリカ西海岸地域の日本人の教授のラボに移ることができました。しかし、家内は折角働いていたアメリカのベンチャー企業を退職して、別の日本人の教授のラボに、テクニカルスタッフとして再就職することになります。そのラボが、また、今でいうブラック企業でした。妻には本当に迷惑をかけたことになります。
こういう状況がバックグランドにあり、私は意識していなかったですが、その後も同じような状況が10年近く続いていたと、妻は感じてたのかもしれません。ならば、妻が私と離婚すると言いだすことは理解できますし、それを思い留めることは非常に難しいと感じました。何せ、10年の蓄積がありますので。
現状を冷静に分析した(リストラ離婚宣告で)
20代と30代の頃は、私は、大学の研究職を将来の職業として考え、最終的には教授になることを目指していました。しかし、教授になるための道は本当に厳しく、大きなプレッシャーを私自身が感じていて、妻や子供たちに優しくできていませんでした。兎に角、研究で成果が出をださないといけない、早く教授にならないといけない、そのことばかり考えていました。その過程で、妻や子供たちへの対応が酷いものになっていたと、今から振り返れば感じます。ただ、その時は売れない芸人のような精神状態で、売れてから(教授になってから)生活を立て直そうと思っていました。
ただ、私も心身ともにすり減らす研究生活に疲れて、家族のために、アカデミア(大学関係)を離れて、企業に勤めようと考え始めていました。そして、妻が先に関西圏の大手企業に勤めて、その企業での生活を実際に見聞きするようになりました。その結果、私は大学の教授になることは辞めて、企業のサラリーマンとして働くことを選ぶことになります。
40歳で大手外資企業の事業所が閉鎖された時には、正に企業に行くことを決心して、企業に入社したばかりだったのです。その時に、幸運なことに、ある地方大学の教授のポジションがオファーされました。
非常に有難いことで、かつ魅力的なオファーだったので、非常に悩んでいました。また、あの成果を出し続けないといけないプレッシャーの中で、家族に迷惑をかける状況が果たして得策かどうか、自分の人生全体をみて俯瞰して判断しようとしていました。
しかし、妻はもう私との生活に疲れ果て、私との離婚を選んだのだと思います。妻は、私が教授になりたがっていたのを知っていたので、企業に入っても、結局はアカデミア(大学関係)に未練を持ち続けると思っていたのかもしれません。「企業になんかいかなければ良かった。僕は、家族の犠牲になったんだ。」と、あの当時の私なら言いかねなかったと思います。
私は、誤解を恐れずに言えば、ブラック企業のような職場環境に15年近くいて、心身ともにすり減っていたのだと思います。あの時、企業に転職する決断をしたのは、私の人生に於いて最良の決断であったと、今振り返ればそのように感じます。私が幸運に教授になったとしても、鼻持ちならない教授になっていたのではないかと、今なら危惧します。
その当時現状を冷静に分析すると、妻の今までの不満が爆発した形でした。なので、私が企業に就職するので、家族中心の生活に改めて、今までのことを詫びたとしても、妻としては、認めないし、許さないだろうと私は分析してしまいました。
今後の善後策(リストラ離婚宣告で)
善後策と言っても、離婚するかしないかの2択しかありませんので、それぞれについて、利点と欠点を、当時書きだした記憶があります。
[box02 title="このまま結婚生活を続ける利点"]
1) 2人の子供たちのために、片親にならない方が良い。
2) 離婚は、世間体が良くないし、今後の転職にも影響が出てくる可能性がある。
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[box01 title="離婚する利点"]
1) お互いを冷静に見つめ直すことができる。離婚すれば、基本的に妻とは他人になるので、嫌でも一歩置いた存在として、お互い振舞うことができる。
2) 離婚によって、今までの不満や怒りやこだわりがいったん解消されて、お互いの良い点を再認識することが得切るのではないだろうか?
3) 子供達にとっても、仲の悪い両親に育てられるよりも、離婚して片親に育てられる方が環境として良いのではないか?
4) 離婚して一番問題となるのは、離婚家庭の経済力であるけれど、それに関しては妻の給料や私の養育費で十分カバーできるので、問題となることはない。
5) 妻がどうしても離婚したいと言っているのだから、その希望を叶えるのが、やはりベストではないだろうか?
6) 私の気持ちとしても、仕事をなくした時に、畳みかけるように離婚を強要してくる妻とはやって行けないとの思いがあり、この思いのまま結婚を継続するのは得策とは思えない。
[/box01]
結論として、離婚する利点の方が、結婚を続ける利点よりも上回ったので、離婚する方向で考えるべきだと私も考えました。その当時、上の子供が小学生低学年で、下の子が保育園だったので、子供の意見を聞いたり、子供にある程度きちんと説明するという機会を得られなかったのが一番の心残りです。といいますか、一番すまないと思っていることです。
最終的な対応(リストラ離婚宣告で)
本来なら、一度顔を合わせて、じっくりと離婚について、妻と二人で冷静になって話し合うべきだったと思います。
ただ私としては
と考えていたので、話し合って、離婚を保留にして、結婚生活を続けることは辞めるべきだと結論を下しました。
なので、話し合いをせずに、全面的に、離婚することを受け入れました。